第四章 呼び声
最初に届いたのは、書状ではなかった。
人の口から漏れた、曖昧な一言だった。
「……その名が、出ておりまして」
どこで、とは言われない。
誰が、とも言われない。
だが、その言葉は、確かに意図を持って置かれた。
評定所の空気が、わずかに変わる。
それまで名前を避けることで保たれていた均衡が、その一言で揺れた。名は、呼ばれなくても存在する。だが、口にされた瞬間、引き返せなくなる。
「まだ、時期尚早では」
そう返す声は、慎重だった。
だが、その慎重さが、以前ほど力を持たないことを、誰もが感じ取っている。
「非常の折ですから」
非常。
その言葉は、便利だった。意味を定めず、異論を押し流す力がある。誰もその定義を問わない。ただ、必要だという感覚だけが、場を支配する。
書付が、机の端に置かれた。
これまでと違い、中央には置かれない。回覧もされない。だが、そこにあること自体が、無言の合図だった。
「ご本人は、何と」
問いは短く、低い。
それに続く沈黙が、長い。
「……お立場としては、遠いと」
遠い。
その言葉が選ばれた理由を、誰もが理解している。近いと言えば、野心になる。遠いと言えば、無垢に聞こえる。
「それが、かえってよいのでは」
その声に、即座の反論はなかった。
前に出ていないこと。関わっていないこと。どちらも、今は利点として数えられている。
誰かが、視線を伏せた。
誰かが、静かに頷いた。
合意ではない。ただ、拒まれなかった。
その日の評定は、早く終わった。
決まったことは、何もない。だが、決める方向だけは、はっきりした。
廊下に出ると、いつもより人が少なかった。
それぞれが、別の場所で、同じ話をすることを知っているからだ。
その頃、江戸の外れにある一角では、雪が降っていた。
庭の白は、まだ踏み荒らされていない。障子の向こうで、変わらぬ一日が続いている。
そこへ届いたのは、呼び出しではない。
訪問でもない。
ただ、「いずれ、お話を」という含みを持った言葉だけだった。
正式ではない。
だから、断る理由もない。
名は、すでに出ている。
本人の意思とは関係なく。
呼び声は、まだ遠い。
だが、それは確実に、こちらを向いていた。




