第三章・第二話 ひび(弐)
それは、正式な決まりではなかった。
だが、決まりのように扱われ始めていた。
「こちらは、先に通しておきます」
そう言われて差し出された書付は、特別な印があるわけでも、強い言葉が使われているわけでもない。ただ、いつもより早く回り、いつもより少ない人の手を経ていた。
誰も理由を問わない。
問わなくても、察してしまうからだ。
評定の前に話が済んでいる。
評定の外で、話が進んでいる。
それは、違反ではない。
まだ、違反ではない。
だが、順序が変わった。
順序が変わるということは、力の向きが変わるということだ。
「外からの返りが、早うございますな」
その言葉に、軽い笑みが添えられた。
笑みは、場を和らげるためのものだ。だが、その奥にある意味を、誰もが理解している。
外は、待っていない。
そして、内もまた、待てる状況ではない。
机の上に並ぶ紙の種類が、変わってきていた。
これまでは報告が多かった。今は、案が増えている。決めていないはずなのに、決めた前提で書かれた文が、少しずつ混じり始めている。
「仮置きですから」
そう言って差し出される文面は、仮置きの体をしている。
だが、その言葉遣いは、すでに未来形を含んでいた。
「……この表現は、少し強くありませんか」
指摘は、柔らかかった。
それでも、紙を差し戻す手が、わずかに止まる。
「では、こちらで調整を」
その返答に、誰も異を唱えなかった。
調整、という言葉が、いつの間にか便利に使われるようになっている。
誰が調整するのか。
どこまで調整するのか。
その問いは、口にされない。
口にすれば、責の所在がはっきりしてしまうからだ。
評定が終わったあと、廊下で立ち止まる者が増えた。
小声で言葉を交わし、互いに確かめ合うような視線を向ける。そこには、以前にはなかった種類の連帯が生まれている。
同時に、距離も生まれていた。
話に呼ばれない者。
書付が後回しにされる者。
誰かが意図的に排したわけではない。
だが、自然に分かれ始めている。
「……この流れ、どこまで行きますかな」
その問いは、返事を求めていなかった。
問いを口にすること自体が、すでに一つの賭けだった。
誰も答えない。
答えれば、その先を見据えていることになる。
評定所を出ると、夕暮れの風が冷たかった。
江戸の空は、澄んでいる。雲は少なく、遠くまで見渡せる。だが、その広がりが、かえって不安を呼ぶ。
ひびは、確実に広がっていた。
それは音を立てず、誰の責でもなく、静かに。
そして、誰もが知っている。
このひびは、誰かが踏み込まなければ、止まらない。
だが、その誰かが、まだ見えない。




