表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/10

第三章・第二話 ひび(弐)

それは、正式な決まりではなかった。

だが、決まりのように扱われ始めていた。


「こちらは、先に通しておきます」


そう言われて差し出された書付は、特別な印があるわけでも、強い言葉が使われているわけでもない。ただ、いつもより早く回り、いつもより少ない人の手を経ていた。


誰も理由を問わない。

問わなくても、察してしまうからだ。


評定の前に話が済んでいる。

評定の外で、話が進んでいる。


それは、違反ではない。

まだ、違反ではない。


だが、順序が変わった。

順序が変わるということは、力の向きが変わるということだ。


「外からの返りが、早うございますな」


その言葉に、軽い笑みが添えられた。

笑みは、場を和らげるためのものだ。だが、その奥にある意味を、誰もが理解している。


外は、待っていない。

そして、内もまた、待てる状況ではない。


机の上に並ぶ紙の種類が、変わってきていた。

これまでは報告が多かった。今は、案が増えている。決めていないはずなのに、決めた前提で書かれた文が、少しずつ混じり始めている。


「仮置きですから」


そう言って差し出される文面は、仮置きの体をしている。

だが、その言葉遣いは、すでに未来形を含んでいた。


「……この表現は、少し強くありませんか」


指摘は、柔らかかった。

それでも、紙を差し戻す手が、わずかに止まる。


「では、こちらで調整を」


その返答に、誰も異を唱えなかった。

調整、という言葉が、いつの間にか便利に使われるようになっている。


誰が調整するのか。

どこまで調整するのか。


その問いは、口にされない。

口にすれば、責の所在がはっきりしてしまうからだ。


評定が終わったあと、廊下で立ち止まる者が増えた。

小声で言葉を交わし、互いに確かめ合うような視線を向ける。そこには、以前にはなかった種類の連帯が生まれている。


同時に、距離も生まれていた。

話に呼ばれない者。

書付が後回しにされる者。


誰かが意図的に排したわけではない。

だが、自然に分かれ始めている。


「……この流れ、どこまで行きますかな」


その問いは、返事を求めていなかった。

問いを口にすること自体が、すでに一つの賭けだった。


誰も答えない。

答えれば、その先を見据えていることになる。


評定所を出ると、夕暮れの風が冷たかった。

江戸の空は、澄んでいる。雲は少なく、遠くまで見渡せる。だが、その広がりが、かえって不安を呼ぶ。


ひびは、確実に広がっていた。

それは音を立てず、誰の責でもなく、静かに。


そして、誰もが知っている。

このひびは、誰かが踏み込まなければ、止まらない。


だが、その誰かが、まだ見えない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ