第三章 ひび
最初に変わったのは、決まりごとではなかった。
言葉の使われ方だった。
評定所に集まる面々は、以前と変わらない。
刻限も、座の順も、議題の並びも同じだ。だが、発せられる言葉が、わずかにずれている。意味ではない。距離が変わっていた。
「――と、聞いております」
その言い回しが、増えた。
誰が言ったのか、どこで聞いたのか。そこは曖昧なまま、話だけが置かれる。確認はされない。否定もされない。事実かどうかよりも、「そういう話がある」という状態が、そのまま場に残る。
書付の扱いも変わった。
これまでは、すべてが等しく机の上に置かれていた。今は、置かれる前に一度、手が止まる。誰に見せるか、どこまで回すか。小さな逡巡が、紙の動きを鈍らせる。
「これは……まだ、よろしいでしょう」
誰かがそう言い、紙を引き寄せる。
誰も異を唱えない。だが、その一瞬、場の空気が揺れた。隠したという事実だけが、確かに残る。
議題の名も、さらに慎重になった。
具体を避け、抽象に寄せる。人を指さず、状況を語る。だが、避ければ避けるほど、指されていないはずの名が、はっきりと浮かび上がる。
「外からの視線が、厳しくなっております」
「内もまた、静かではありませんな」
その言葉に、頷きが返る。
だが、誰も続きを言わない。続きを言えば、どこからその視線が来ているのか、どこが静かでないのかを、示さねばならなくなる。
沈黙は、以前より短くなった。
代わりに、言い切らない言葉が増えた。
「可能性としては」
「一つの見方として」
「仮に、という話ですが」
それらは、慎重さの仮面を被っている。
だが、実際には責を置く場所を、少しずつずらしているだけだった。
評定の終わり際、ある書付が回されなかった。
誰もその理由を問わない。問えば、問うた者が、その紙を引き受けることになるからだ。
廊下に出たとき、誰かが小さく呟いた。
「……随分と、早いですね」
何が、とは言わなかった。
だが、その言葉は、確かに場を通り抜けた。
その日以降、同じ言葉が、別の場所でも聞かれるようになった。
評定所の外、役所の奥、書院の片隅。形を変えながら、同じ含意を持って。
早い。
急いでいる。
誰かが、先を見据えて動いている。
それが誰なのかは、まだ分からない。
だが、動いていない者たちの足元で、氷が鳴った。
ひびは、音を立てなかった。
だが、一度入れば、元には戻らない。
誰も踏み抜いてはいない。
それでも、水面はもう、同じではなかった。




