第六章 朱
朝は、いつもと変わらなかった。
埋木舎の障子越しに入る光も、庭の湿った土の匂いも、昨日の続きに過ぎない。変わったのは、直弼の動きだけだった。
出立の刻限が、決められていた。
誰が決めたのかは分からない。知らせが届いたとき、そこに疑問は生じなかった。問いは、もう通らない段階に入っている。
直弼は、装いを整えた。
新しいものはない。派手さもない。だが、いつもより、ほんのわずかに整っている。その差は、自分にしか分からない程度だ。
門を出ると、道が続いていた。
これまで何度も通ったはずの道だ。だが、足運びが違う。踏み出す一歩が、戻るためのものではないと、身体が理解している。
江戸に入ると、空気が変わった。
人の声が増え、視線が重なる。挨拶は短く、要件は簡潔だ。誰も説明しない。説明が不要になった合図だった。
一つの部屋に通された。
広くもなく、狭くもない。席は用意されているが、指示はない。座る位置は、自然に決まった。そこに座ることを、誰も咎めない。
机の上には、文が置かれていた。
名前は書かれていない。役目も明記されていない。だが、その文は、読む者を前提として書かれている。
直弼は、目を通した。
行間に、余計な言葉はない。曖昧な表現も、過剰な断りもない。必要なことだけが、淡々と並んでいる。
これは、押し付けではない。
もう、動き始めたものの確認だ。
返事は求められなかった。
代わりに、次の文が差し出される。さらに、その次。順序は決まっている。誰かが音頭を取るわけでもない。ただ、滞りなく進む。
直弼は、途中で一度だけ手を止めた。
引き受けない、と決めた線を、越えていないか。
越えていない。
だから、進める。
部屋の外では、誰かが待っている気配があった。
待たせているという感覚はない。こちらが、追いついてきただけだ。
ひとつの配置が、静かに定まった。
声もなく、拍子もなく。だが、その瞬間、周囲の動きが変わる。文の回り方、視線の向き、言葉の選び方。すべてが、わずかに調整される。
それを見て、直弼は理解した。
朱は、ここだ。
誰かが塗ったのではない。
線を引いた結果、そこに残った色だ。
埋木舎に戻る頃、日が傾いていた。
庭の土は乾き始め、雪の名残は消えかけている。白はもう、前の白ではない。
直弼は、縁に立ち、しばらく外を眺めた。
ここに戻れた、という感覚はなかった。
だが、失ったとも思わない。
役目は、始まったわけではない。
すでに、始まっていた。
朱は、鮮やかではない。
だが、消えない。




