幕間 静かな記録
紙の匂いは、どれも同じだった。
新しい墨も、乾きかけの墨も、机の上に並べば区別がつかない。川路聖謨は、書付の端を揃え、重ね、また次を開いた。
外の動きは、相変わらず早い。
返りは早く、言い回しは簡潔になった。決まっていないはずのことが、決まった前提で書かれている。責任の所在は曖昧だが、手続きだけは先に進む。
それを、川路は止めなかった。
止められる立場でもない。だが、書き残す立場ではある。
文面の癖が、変わった。
これまでより、主語が少ない。命じる言葉もない。だが、文は自然に「通る」ようになっている。回り道が減り、手戻りがない。
――配置が、変わったな。
川路は、そう思ったが、口にはしなかった。
名を出せば、説明が要る。説明をすれば、立場が生まれる。立場は、今は邪魔だった。
一枚の書付に、目が留まる。
決裁を求める文ではない。報告でもない。だが、読めば次の文が用意されている。前提が、静かに揃えられている。
川路は、その文を写した。
写すことで、距離を取る。原文に触れすぎないための、長年の癖だ。
筆を進めながら、川路は思い出していた。
かつて、現場の声が、上へと届いた時代があった。遅くても、曲がっても、最後にまとめる手があった。今は、その手が見えない。
だが、今日は違う。
まとめる手が「見えない」のではない。見せないのだ。
「……なるほど」
独り言は、紙に落ちない。
落とせば、記録になる。記録は、後で意味を持つ。今は、意味を与えすぎない方がいい。
別の書付には、日付があった。
具体的な刻限、具体的な場所。名前はない。だが、誰がそこに座るのかは、書かなくても分かる配置になっている。
川路は、その余白を見た。
名を書けば完成する。
書かなくても、動く。
どちらが、重いのか。
川路は知っている。書かない方だ。
外では、風が強まっていた。
江戸の空は澄んでいる。遠くがよく見える日は、決まって判断が早くなる。早さは、時に慎重さの仮面を被る。
川路は、最後に一行だけ、書き添えた。
評価ではない。感想でもない。事実だけだ。
「手続きは、滞りなく進行中」
それで十分だった。
紙を重ね、紐で綴じる。
記録は、静かに残る。声を上げず、色を持たず。ただ、後で開かれるために。
川路は、筆を置いた。
誰が前に出たのかは、ここには書かない。だが、前に出る必要がなくなったことは、はっきりと感じていた。
朱は、遠くから見ると、ただの配置に見える。
近づけば、色だと分かる。
川路は、席を立った。
次の文が、もう来ている。




