第五章・第三話 朱に至る(参)
線は、言葉より先に引かれた。
直弼は、いくつかの誘いを受けなかった。
断ったわけではない。返事をしなかったのでもない。日時の調整がつかない、体調が優れない、他の用が立て込んでいる――理由は穏やかで、どれも嘘ではなかった。
だが、それらは一つの方向を指していた。
踏み込みすぎない。
誰かと密に会えば、その場で何かが決まる。
決まらなくても、決まったように扱われる。直弼は、その距離を意識的に保った。近づかないことが、拒絶よりも強い意思になる場合があると、知っていたからだ。
代わりに、文だけは受け取った。
書付、覚え、要点。すべてを揃えて、机の上に並べる。人の声は削ぎ落とされ、文面だけが残る。文は感情を運ばない。だが、配置は運ぶ。
直弼は、文を二つに分けた。
ひとつは、今すぐに手を付けるべきもの。
もうひとつは、手を付けてはならないもの。
後者には、共通点があった。
急ぎすぎている。
誰かの思惑が、文の中に入り込みすぎている。
「これは、私の役目ではない」
声に出さず、そう区分けする。
役目でない、という言葉は便利だ。だが同時に、逃げ道にもなる。直弼は、逃げ道としてではなく、境界としてそれを使った。
引き受けるなら、全体だ。
一部だけを引き受けるなら、責の形が歪む。
歪んだ責は、必ずどこかに跳ね返る。
それが最も弱い場所へ向かうことを、直弼は知っていた。
夜、灯の下で、直弼は再び白紙を前にした。
そこに書く言葉は、まだ少ない。
「私が担うべきは、秩序であって、主張ではない」
書いてから、しばらく眺める。
主張は、外から持ち込まれる。秩序は、内で支えるものだ。その線を越えれば、役目は役割を変える。
もう一行、書き足す。
「個々の正しさは、ここでは扱わない」
正しい意見は、多すぎる。
それを選べば、別の正しさを切ることになる。直弼が引き受けるのは、その選別ではない。
直弼は、筆を置いた。
書いた二行は、答えではない。制限だ。
翌日、ある書付が戻ってきた。
文面は変わらないが、配置が変わっている。直弼が受け取らなかったものが、自然に別の手へ回されている。誰かが決めたのではない。そうなっただけだ。
それで十分だった。
引き受けないものを明確にすれば、
引き受けるべきものが、輪郭を持つ。
朱は、まだ表に出ない。
だが、白の下で、色はもう定まっていた。
直弼は、机の上を整えた。
残った文は少ない。だが、それらは重い。
この重さなら、持てる。
――そう判断した自分がいることを、直弼は否定しなかった。




