第一章 雪の下
JK老中の話は、正弘の死から、唐突に終わりを告げ、残された激動の時代が次の主役を求める中で、引き出された人間像を、この話では、描いていきます。
朝から、雪が音を立てなかった。
降っているのか、積もっているのかも判然としない白が、庭の輪郭をゆっくりと曖昧にしていく。埋木舎の軒先では、昨夜の冷えをそのまま抱えたような空気が、動かずに留まっていた。
井伊直弼は、いつもと同じ刻限に目を覚ました。
湯を沸かし、書を机に置き、庭に向けて障子を少しだけ開ける。雪は、踏み荒らされることもなく、低木の上に静かに伏している。枝が折れる気配もない。ただ、白い。
書に目を落とす。
文字は追える。意味も、いつも通りに頭に入る。だが、行と行のあいだに、わずかな空白が生まれているような気がした。読めないわけではない。ただ、読み進めるたびに、何かが欠けていく。
廊下の向こうで、足音が止まった。
家人の声が、控えめに名を呼ぶ。
「……お耳に入れるほどのことではないのですが」
前置きが長い。
それだけで、直弼は続きを察してしまった。
「江戸より、噂が」
噂。
それは知らせではなく、確認でもない。責を負う者の名が添えられない言葉だ。
「老中首座が……ご病気とのことで」
言葉はそこで途切れた。
否定も、断定もなかった。家人はそれ以上を言わず、視線を落とす。
直弼は、何も尋ねなかった。
病かどうかは問題ではない。そこに名がないことが、すでに答えだった。
雪は、まだ降っているのかもしれない。
庭の白は、少しずつ厚みを増しているようにも見える。だが、音はない。人の世の変わり目は、いつもこうだ、と直弼は思う。騒ぎは、後からついてくる。
書を閉じる。
湯は、もう冷めていた。
——これで。
その先は、言葉にしなかった。
言葉にすれば、問いになる。問いは、やがて答えを求める。
直弼は、障子を閉めた。
外の白を遮ると、室内の影が少し濃くなる。埋木舎は、相変わらず静かだ。ここには何も届かない。いや、届いてはいる。ただ、まだ触れていないだけだ。
「誰が、決めるのだろうな」
独り言のように、しかし独り言ではなく、その言葉は落ちた。
雪の下に、音もなく。
書を開いたまま、しばらく頁は動かなかった。
文字はそこにあり、意味もある。だが、今はそれ以上のものを要求してこない。ただ、在るだけだ。急かされないというのは、時に残酷でもある。
埋木舎の奥から、薪のはぜる音がした。
乾いた音ではない。湿りを含んだ、冬の音だ。火は燃えているが、温もりはすぐには広がらない。こういうものだ、と直弼は思う。火はあっても、暖まるには時が要る。
再び廊下に気配が生じた。
今度は別の家人だ。先ほどよりも足取りが慎重で、言葉を選んでいるのが、襖越しにも伝わってくる。
「先ほどの話……他にも、同じような噂が」
噂は、ひとつでは終わらない。
それが重なると、人はそれを流れと呼び始める。
「江戸では、評定が延びているとか。決まるはずのことが、決まらぬまま……」
直弼は、湯呑を手に取った。
すでに冷えていると知りながら、口をつける。温度を確かめるためではない。ただ、沈黙に間を置くためだ。
「そうか」
それだけ言って、続きを促さなかった。
意見が割れているのではない。意見は出揃っている。ただ、それを束ねる手が、今は見当たらない。
家人は一礼して下がった。
足音が遠ざかると、埋木舎は再び、雪に包まれたような静けさを取り戻す。
机の端に、書付が重なっている。
日付、用件、署名。簡潔で、余白の多い紙だ。こうした紙が、世を動かすこともあれば、何も動かさずに積み重なることもある。今は、後者の気配が強い。
余白に、目が留まる。
何も書かれていない場所ほど、多くのことを含んでいるように見えるのは、なぜだろうか。人の声が重なると、かえって何も聞こえなくなる。だが、沈黙が続くと、人はそこに意味を探し始める。
直弼は、筆を取らなかった。
書いてしまえば、それは記録になる。記録は、後戻りを許さない。
夕刻になり、雪はいよいよ音を失った。
降っているのか、やんだのかも分からない。ただ、庭は白いまま、形を変えずにいる。
直弼は縁に立ち、しばらく外を眺めた。
ここから見えるのは、雪と庭だけだ。江戸の動きも、人の思惑も、この場所までは届かない。だが、届かないからといって、存在しないわけではない。
「……まだだ」
同じ言葉が、再び口をついた。
だが、意味は少し違っていた。
待つことを選んでいるのではない。
まだ、呼ばれていないだけだ。
直弼は縁から退き、障子を閉めた。
埋木舎は元の静けさを取り戻す。雪の下で、何かが動き始めていることを、この静けさだけが、逆に雄弁に語っていた。
その夜、直弼は筆を取らなかった。
記すべき言葉は、まだ来ていない。
この小説は、まだ、悩みながら投稿しているので、後で大幅に改稿するかもしれません。




