第9話 嫉妬の萌芽
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離宮へ運び込まれたレイシアの元へ、真っ先に駆けつけたのはノアだった。
冷静を装いつつ、銀髪の刻印師は、王の腕に抱えられた少女を自らの腕の中に抱き取った。かすかな、だが明確な意志を、ゼクスは感じた。
「ミラ、薬湯を」
「はい!」
泣きそうな顔をしていた侍女は、即座に駆け出す。
「……傷は」
ゼクスは低く唸るように声を発した。
寝台にうつ伏せの影妃の背にかかる衣を、ノアがためらいなく切り開く。
血で貼り付いた布が裂け、白蝋のような肌が生々しい赤に濡れている。
刻まれたゼフィールの花紋の動脈が、深くえぐれ、断ち切れかけている。
どく、とゼクスの鼓動が跳ねた。
侍女ミラが慌てて王の前に立つ。
「陛下、どうぞ部屋の外でお待ちくださいませ」
そのとき。
弱い息の合間から、レイシアの声がこぼれた。
「……王。子どもは……無事でしたか?」
ゼクスは吸い寄せられるように手を伸ばす。
指が触れる寸前、鋭い声が空気を裂いた。
「──触らないでください」
銀髪の刻印師が、王を制した。
ノアとゼクスの視線が、がち、とぶつかる。
ふたりは、初対面ではない。
ノア・エルバス。
元老院の懐刀にして、神殿が次期後継者として育て上げたた完璧な神官。
ゼクスは、かつてまだ無力な少年兵の頃、敗走の初陣で、ただ一度だけ彼と出会っている。
血と泥の戦場で、当時ゼクスの兄にあたる王太子は馬から落ち、敵兵に包囲されていた。
ゼクスは兄を守るように立っていたが、もはや力は残っておらず、魔力も剣技も敵の猛威には歯が立たない状況だった。
――その時。
ノアは神脈と星の配列を読み、天才的な判断で唯一の脱出口を切り開いた。
冷徹で、精確で、迷いのない手――
その手が伸びなければ、ゼクスと実兄はとっくに命を落としていた。
(あのとき救ってくれたのは、この男だ)
しかし今。
その手は、ゼクスを拒んでいる。
救いではなく、影妃を守るために。
ノアの紫紺の瞳は、冷たく研ぎ澄まされていた。
「陛下が近づけば、神脈はさらに乱れます。影妃の命より、まだ優先されるものがありますか?」
怒りとも、恐れともつかぬ熱が、ゼクスの胸の奥で燻り、燃え上がろうとしていた。
またノアの声音も、普段の穏やかさを致命的に欠いていた。
その紫紺の双眸は、はっきりと怒りを宿している。
「影妃は、あなたの不用意な行動で傷つけてよい存在ではありません」
「不用意だと?」
「事実です」
王に目もくれず、ノアは己の指先の描く複雑な陣円に集中する。
刻印師の長い指先が、レイシアの背に触れた。花紋刻印の術式を展開するには、すさまじい集中力が必要だ。
「花紋を修復します」
ノアは王を一瞥すると、レイシアの背へ指を滑らせた。
掌から淡い光が溢れ、切断された偽紋を縫合していく。
その指先が、レイシアの背花をなぞり──レイシアがかすかに身をよじる。
ゼクスの内側で、何かがざらりと逆撫でされた。
「……王はお下がりください。治療の邪魔です」
有無を言わせぬ声音。
ゼクスは、押し出されるように一歩退いた。
「…影妃が庇った孤児は無事だ。けがひとつない」
「では、レイシア様にはわたしからそのようにお伝えします」
「陛下、こちらへ」
はらはらした表情でふたりの様子を見ていた侍女が、促した。
ノアは祈るように掌を重ね、偽紋に指を滑らせる。
淡い光が脈動し、えぐられ切断された刻印が少しずつ形を取り戻していく。
ぎり、と拳をにぎりしめ、ゼクスは影妃の寝室を後にした。
扉の向こうで、痛みに耐える影妃の声が漏れる。
◇ ◇ ◇
明け方、ノアは静かに影妃の部屋を出た。音もなく扉を閉じて視線を上げると、目の前の壁によりかかって、王が立っていた。おそらく、一睡もしていない。ノアは王をまっすぐに見据えた。その言葉は冷たい刃となって、ゼクスの胸を刺す。
「あなたは、影妃の命を使い潰すおつもりなのですか」
ゼクスの青灰色の瞳が震えた。
「違う——」
「では、どうか示してください。影妃は、使い捨ての器ではないと」
沈黙。
かつてないほど、長く重い沈黙だった。
「影妃の容体は」
「施術が終わったばかりです。眠っています」
ほっと、ゼクスは息を吐く。その様子を無表情に一瞥して、ノアは言った。
「当分の間、安静です。陛下は執務室にお戻りください。忠実なあなたの側近たちが、王の不在を騒ぎ出す前に。どうか今後の訪問はお控えくださいますよう」
ノアは淡々と告げたが、その背中は怒りを押し殺していた。
ゼクスはなにも言わず、踵を返した。
◇ ◇ ◇
次の日から、影妃の離宮には毎朝、瑞々しい果物が届けられるようになった。
ただの配給ではない。
季節の中でも、いちばん香り高く、味のよい実だけが選ばれている。
籠を開けば、甘い香りがふわりと胸をくすぐった。
「……王から?」
レイシアが問うと、ミラは嬉しそうに頷く。
「お見舞いのお品だそうです」
「……不要だわ」
拒む言葉は、思ったよりも遅れて喉を出た。
ここ数日、ケガの影響か、微熱が続いている。
「陛下は、レイシア様のおケガはご自分に責任があると仰せで・・・」
(違う)
影妃は神脈の歪みを押さえるための仮初の器。
使い捨てにするための存在。
王の責任など、どこにもない。
そう言い聞かせるほどに、果物の甘くやわらかな香りが胸を締めつけてくる。
「いただいた衣装……だめにしてしまったわね」
ぽつりと落ちた呟きを拾い、ミラは明るく応える。
「また新しいものを贈る、と仰っていましたよ」
「受け取らないで」
レイシアはきっぱりと言い切った。
「王が私に近づく理由は、政治と神脈の均衡のため。それだけよ」
「でも――」
「いいのよ」
レイシアは、ミラの言葉をそっと断ち切る。
自分に言い聞かせるように。
近づいてはならない。
この胸に、芽生えてしまった形のないもの。
それを悟られてはならない。
しばらく沈黙が落ちる。
やがてレイシアは息をついた。
「ミラ。夜間の警備を強化して。羽虫一匹入れないつもりで」
「え?」
侍女は瞬いた。
「ここは宮殿の西端ですし、危険なことなど――
それにレイシア様こそ、夜な夜な外へお出かけになられていたのでは?警備の兵士を置くのは面倒だとおっしゃっていたのに」
レイシアは視線を逸らし、短く言った。
「面倒な猫が忍び込んでくるから」
「……赤毛の?お気に入りだと――」
「ミクシィは例外。あの子は良いの。問題は、――別の猫よ」
レイシアは、二度目のため息を落とした。
微熱のためか、体がだるい。
◇ ◇ ◇
夜は深い。離宮の影妃の寝所。
薄闇の中、影妃の寝所には薬草の香りが静かに満ちていた。
蝋燭の炎が、かすかな風にゆらりと揺れた。
と、そのときである。
窓をひっそりと開ける気配がした。
それに気づいて、赤毛の猫が尻尾を膨らませる。
「邪魔をするな、ジン」
「にゃ……!」
ゼクスは赤毛の猫をひょいと抱きかかえ、床に降ろした。
レイシアは寝台に横たわり、目を閉じている。
浅く息を吐くたび、背の奥がじんと熱を差す。
痛みはまだ、完全には引いていない。
——だから、眠りは浅い。
ふいに、窓辺の空気が変わったのを感じた。
(・・・また)
レイシアは瞼を閉じたままだ。
「寝たふりをするならもっと徹底してやるべきだな」
眠っている者の息づかいは、もっと深く、規則的だ。
低く、押し殺した声でそう言って、ゼクスはレイシアは寝台に腰掛けた。
レイシアは仕方なさげにゆっくりと身を起こし、薄闇の中で王を睨む。
「——何のつもりです?」
「お前こそなんのつもりだ。配置されている兵士の数が倍になってたぞ。巻くのが面倒だ」
「猫が忍び込んでくるからです」
「それはこいつのことだろう」
ひょい、とゼクスは足下から赤毛の仔猫を持ち上げてみせた。
「ミクシイ!」
レイシアはぱっと微笑んで翡翠色の瞳の仔猫を抱き取った。
「この子は別です」
「ではどんな猫が、お前の寝室に忍び込んでくると?」
二の句が継げず、レイシアは思わず黙る。
「・・・お見舞いはもうけっこうです。政務がお忙しいのでしょう。背花が傷ついてしまったので、きっと神脈にも少なからず影響が」
「お前が気にすることではない」
きっぱりとゼクスは言って、手に持った包みを差し出した。
「なんです?」
「安静続きでは、退屈だろうと思ってな」
戸惑いながら包みを開けてみると、薄紙で丁寧に包まれた一冊の本の、擦れた背表紙があらわれた。
すいぶん古い装丁だ。けれど、丁寧に何度も補修され、手入れをされた跡がある。
「生前、母が、好んで読んでいた本だ。子ども向けだが、挿絵が美しい。」
レイシアの指先が、ほんのわずか震えた。
「本が好きだろう?」
退屈しのぎにでも眺めるといい、とゼクスは付け加えた。
沈黙。
レイシアは、息を小さく吸った。
胸の奥が、言葉にならない熱を発している。
「……お帰りください」
硬い拒絶。
その声は頑なで、自分自身すら持て余しているようだった。
「ゆっくり休め」
ゼクスは踵を返す。
窓枠を越える前、ゼクスはふと立ち止まり、レイシアを振り向きざまに言った。
「そういえば、果物の礼を聞いてないな」
「・・・勝手におくりつけてくるのはあなたでしょう!」
「少しは、食べられたか」
気遣いの滲む声音に、観念したように、レイシアは小さくつぶやいた。
「・・・おいしくいだだきました。ありがとうございます」
ゼクスの肩が、微かに揺れた。
冷酷無比と謳われる戦場の王は、めったに笑わない。それは、不意の緩みだった。
次の瞬間、王は闇へ消える。
気配すら、煙のように。
レイシアは、胸に抱いた本を固く抱きしめた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ゼクスと影妃の距離が次第に近づいていきます。
影妃をめぐって、いろいろな思惑が動き出します。
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