第55話 婚礼そして帰還
夜の海は、光に満ちていた。
無数の灯籠が、水面に揺れている。
ひとつ、またひとつと流された灯は、やがて沖へと広がり、港の外縁を淡く縁取っていた。
まるで、海そのものが星を抱いているかのように。
波のひとつひとつが光を運び、ゆらぎ、重なり、砕けながら、祝福の道をつくっていく。
――かつて禁海と呼ばれた、そして今は命を吹きかえしつつある再生の海の、ただ中で。
「……きれい」
小さな声が、零れた。
リリィだ。
「これは、とうさまと母様のぶん」
胸に抱えた灯籠を、そっと海へ流す。
火が、揺れた。
灯は、ゆっくりと船の周りを離れていく。
その先――甲板の中央に、ふたりは立っていた。
レイシアは、月光をそのまま織り上げたような衣を纏っている。
幾重にも重ねられた薄絹は、潮風を受けるたび、水面に落ちる光のように揺れた。
肩を落とした白の衣が、鎖骨の線をやわらかくなぞっている。
月光を受けた素肌が、ほのかに光を返した。
腰元から流れ落ちる白布が、潮風をはらみ、波のようにひらいた。
幾重にも重ねられたレースの裾が、甲板をすべる。
まるで、海そのものを纏っているかのように。
再生した水脈の流れをなぞるように、白のトレーンが、ゆっくりと広がっていく。
かつて、影妃として王の傍に置かれていた。
名もなく、声もなく、ただ制度の一部として扱われていたことに、抗い続けていた。
そして今、彼女は光の中に立っている。
祝福のまなざしを、正面から受けて。
逃げることなく。
ゼクスの前に、ひとりの花嫁として。
桟橋から、どよめきが起こった。
それはやがて、波のように広がり、拍手と歓声に変わる。
彼女は、王の影ではない。神脈の器でもない。
この港に生き、この海とともに歩いてきた――ひとりの女として、祝福されている。
ゼクスは、ただレイシアを見ていた。
かつて王であり、鮫人族の血脈に連なる者であり、禁海の封印を解いた者として。
あらゆる名を背負った男が、いまはただ、ひとりの女を娶ろうとしている。
女の手を、取る。
海が、静かに鳴いた。
それは、王鯨の歌だった。
遠く、深海の底から響くような、低く長い音。
誰の耳にも届かぬほど微かで、それでも確かに、この海域すべてを震わせる。
灯籠の光が、いっせいに揺れた。
水面が、呼吸する。
かつて止められていた水脈が、いまは自由に、流れていた。
循環が、戻っている。
祝福の証のように、海の奥から、青い光が立ちのぼる。
リリィが、ぱっと顔を上げた。
「とうさま、みて!」
波間に、光が咲いている。
若い珊瑚が、夜の中で淡く発光していた。
かつて滅びた海の、再生の兆し。
地脈と、水脈と、森羅万象へと還された神脈が、いま、ここに。
「誓う」
ゼクスの声が、落ちた。
風もなく、波もなく、ただ、海だけが聴いている。
「お前の男として」
「お前の夫として」
「この命の限り、お前と生きる」
レイシアは、目を伏せた。
そして、頷く。
灯が、弾けた。
最初に、子どもの歓声が上がった。
続いて、笛。
太鼓。
拍手。
桟橋に集まった人々が、無数の灯を掲げる。
船乗りも、商人も、職人も、かつてこの港を捨てかけた者たちすら、いまは皆、同じ灯火を掲げていた。
祝福は、波のように押し寄せる。
夜空の星と、海の灯と、そのあいだで――帆が、ゆっくりと上がった。
「……行こう」
ゼクスが言う。
「海へ」
帆が、ゆっくりと上がった。
夜風をはらみ、白布がふくらむ。
再生した港の水面が、名残を惜しむように揺れた。
船は、ゆっくりと港を離れていく。
レイシアは、ゼクスの手を握り返した。
選ばれたからではない。
選んだからだ。
灯籠が、またひとつ、流れていく。
港を離れ、沖へ、沖へと広がっていく。
海の上に、星の道ができる。
その道をなぞるように、船は進む。
止められていた水脈が流れ出し、閉ざされていた地脈が応え、森羅万象へと還された神脈が、世界の奥底で巡り始める。
それは、この海だけの話ではない。
風が、変わった。
潮が、動く。
海が、ひらける。
そして、彼女の世界もまた、静かに、動き出していた。
◇ ◇ ◇
――そのときだった。
船尾の、荷箱の陰で――かすかな物音がした。
ゼクスが、眉をひそめる。
「……出てこい」
沈黙。
そして、観念したように、ゆっくりと立ち上がった影が、ふたつ。
「……港の治安維持の観点から、航路の安全確認は必要かと」
オルフェンが、咳払いをした。
その隣で、ジンが、悪びれもせずに欠伸をする。
「……護衛任務です」
「誰の命令だ」
「自発的な判断です」
笑い声が、あがる。
それは、見送る者の声ではなく――共に行く者の、声だった。
満天の星が、輝いていた。
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