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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第52話 真相

 王都。地下神殿。

 月が異様に大きく空に浮かんでいた夜。その報は、届いた。

「大司教様!香石に、亀裂が!」

 ガタン、と音を立てて螺鈿細工の椅子が倒れた。

「……なに?」

 使者は蒼白だった。

「地下神殿が崩壊します!早くお逃げに!」


 王都。地下神殿。

 この地下神殿に奉られている香石は、禁海の封印核を埋めた香石と対になるものだ。

 その亀裂が意味することは、ひとつしかない。

「禁海の、封印が……?」

 冬至節を経て鮫人王として目覚めた日の王の言葉が、まざまざと脳裏に蘇る。


 ――母の鱗を、返せ。禁海を、解放する。


 王が不在となって一年近くだ。海域の海賊討伐の名目だけではないことは、うすうす気づいていた。それでもなお、彼らは楽観していたのだ。王は、神殿側に属する刻印師ノアと皇女クリシュナに執政を委ねて海へ出た。ならば王都は、神殿の手の内にある、と。

 元老院は考えていたのだ。王が不在の間、王権をめぐるあらゆる権限を回復できるはずだ、と。星宿庁の予言もあった。クリシュナの花紋が開く日が近い、と。そのとき神脈を抱える王は、ただの器となる。


 王を、操ればよい。神殿の背後から。


 だが――

「――神殿側、だったのか?」

 皇女と、ノアが。


 床が軋む。地下神殿の柱に、細かな亀裂が走る。

 大司教の顔を覆っていた面紗が落ちた。

 使者はぎょっとする。

 その顔は――あまりにも、若い。

 大司教の顔が――揺らいだ。

 長年、ひとつの皺すら刻まれなかったその美貌。

 月光の下でも、蝋のように滑らかだった肌。

 だが今。

 頬の張りが、わずかに落ちる。

 目尻に、細い影が走る。

 白磁のようだった皮膚が、乾いた羊皮紙のように、ひび割れはじめる。

 その瞬間、保たれていた時間が、いっせいに動き出した。

 喉元の血管が浮き、瞳の奥の艶が濁り、唇の色が、ゆっくりと褪せていく。

 美貌は崩れていない。

 ただ、<年齢>が戻ってきている。

 数十年、止められていたはずの時間が、いま、この場で彼の肉体を通り抜けていた。

 使者が、息を呑む。


「おのれ……!」


 崩れ落ちる大聖堂の中。自身の美貌と若さがくずれてゆくことに、大司教は戦慄する。


「刻印師ノアを、即刻拘束せよ!」


 ◇ ◇ ◇


 牢獄。

 冷え切った石壁の中で、大司教の問いが落ちた。


「なぜだ、ノア」


 裁可宮での拷問にも、彼は一言も口を割らなかったノア。だがあきらかになったものがある。ノアの胸に深く刻まれた刻印である。それは、神脈を受けとめた者にのみ現れる、傷と痕跡。疑いようがなかった。影妃の身代わりとして、ノアは自らのからだに刻印を刻んだのだ。

「影妃レイシアのため、か」

 ノアはゆっくりと視線を上げる。

「私は、ずっと疑問でした」

 その声に、怯えはない。

「なぜ神殿は、海を<鎮める>のか」

「荒ぶるからだ」

「荒ぶるのは、閉じ込めるからです」

 静かな声だった。

「私は幼い頃から神殿の書庫に出入りしていました。古い文献を読み、封印核の成立を調べた」

 大司教の目が細まる。

「そこに記されていたのは、“鎮圧”ではなく“再生”でした」

「歪曲だ」

「いいえ」

 ノアは首を振る。

「最初の神脈は、止めるためのものではなかった。流れを整えるためのものだったのです」

 彼は一瞬だけ、目を閉じた。

「ですが、いつからか神殿は“止めること”を選んだ」

 止めれば管理できる。

 止めれば恐れずに済む。

「そして――影妃制度」

 牢獄の空気が、重く沈む。

「人身御供となる女性を選び、王の側に置き、神殿が監視する」

 ノアの声がわずかに低くなる。

「それは祝福ではなく、循環を固定する装置でした」

 大司教の呼吸が、わずかに乱れる。

「彼女と出会ったとき、私は確信した」

「……何を」

 大司教の声が掠れる。

「神脈の循環は、捻じ曲げられている。海は、止められている。禁海の封鎖は、神殿の私利私欲のためだと」

 古文書、禁書庫、地下の記録、百年前に焼却された報告書の写し。

「わたしは、研究を続けました」

 ノアは言う。

「そして分かったのです。神脈は支配の装置ではない。自然へ戻すための回路です」

「自然へ戻す?」

 大司教の声が掠れる。

「私は神殿を壊したのではない」

 ノアは、大司教をまっすぐに見た。

「本来の設計へ戻しただけです」


「――許さぬ」

 大司教は短剣をふり上げる。

「おまえを拾い、ここまで育て上げたわたしへの恩を、仇で返すとは」

「私は裏切ったのではありません」

 ノアの声が、遮る。

「……目を覚ましただけです」


 そのとき。

 くすりと笑う気配がした。

 大司教が振り返る。

 鉄格子の向こうに、クリシュナが立っていた。

「皇女ともあろう方が、このような場所に来るべきではありません」


 鉄格子の向こうに立つ大司教の顔は――もはや、かつてのそれではなかった。

 神殿の奥で永く崇められてきた、神に選ばれたかのような若さ。

 均整の取れた頬の線も、涼やかに整えられた目元も、いまは、ゆるやかに崩れはじめている。張りつめていた皮膚が、わずかに弛み、こめかみに細い皺が刻まれる。唇の端が落ち、頬骨の影が、老いの形に沈み込む。


 神脈に保たれていた時間が、一気に肉体へと流れ込んでいた。

 だが――クリシュナは、そこで目を細めた。

 崩れたはずのその輪郭が、どこか見覚えのある線を描いている。


 眉のかたち。

 目尻の流れ。

 唇の薄さ。


 それは、鏡越しに見慣れた自分自身の――


「ひどい顔ね」

 彼女は、微笑んだ。

 花紋が、静かに開く。

「醜悪だわ」

 大司教の表情が歪む。

「……何がおかしいのです」

「ようやく似てきたと思って」

 クリシュナは一歩、踏み出した。


「わたしに」


 空気が凍る。

「あなたと、同じ顔をしているなんて、ずっと不愉快だったのよ」

 その声に、羞恥も、怯えもない。

「父親だと思ったことはないわ」


 はっきりと、言い切る。

「あなたは、先王の妹である母と密通し、孕ませたことを隠すために臣下へ降嫁させた」

 淡々とした口調だった。

「母はわたしを産んだあと、心を病んで、死んだわ」

 告発ではない。ただの事実の列挙。

「正妃教育と称して、神殿に引き取ったのも、自分の血に連なる者として私を利用するためでしょう?」

 近づいて、彼女は、大司教を見上げる。

「不義の子?」

 くすり、と笑う。

「上等だわ」

 花紋が脈打つ。

「その、不義密通の果てに生み捨てられた娘が、あなたの秩序を終わらせるのだから」

 ノアの刻印に留まっていた神脈が、静かに、引き寄せられる。

「ノアを返して。……わたくしのものよ」

 花紋が、完全に開く。

 ノアのいびつな刻印の中にとどまっていた神脈が、クリシュナの内部に収束し、そして森羅万象の経脈に流れだす。


「神殿の支配など、不要よ」


 そして、クリシュナは、大司教の耳元で、囁く。


「ゼクスが、戻るわよ」

 ――そして、世界を覆す。


 その言葉と同時に、香石が大きく裂ける。


 百年の矛盾が、音を立てて崩れた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

もし少しでも続きを気にしていただたなら、

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