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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第5話 報復と仔猫 

お読みいただきありがとうございます。


影妃としての役目は、

光の届かない場所でこそ試されます。


静かに、しかし確実に――

“影”が動き始める第5話。


楽しんでいただけると嬉しいです。

  夜明け前の空は、まだ色を持たない。

 王城の中庭に、ひやりとした霧が立ちこめていた。

 影妃の離宮から続く石畳を、黒いドレスの裾が音もなく滑ってゆく。

 その背を追うように、侍女ミラが小走りでついてきた。

「お、お待ちくださいませ、レイシア様……本当に、ご自身でなさるおつもりで?」


「当然よ」


 振り返りもせず、レイシアは言う。

 声には、怒りの熱も、悲しみの色もなかった。ただ迷いも逡巡もない鋭さを含んでいる。


 だからこそ、余計に恐ろしかった。


「影妃の権限を使うのは、今回が初めてね。……どうせなら、徹底的に使い尽くさなければ損でしょう?」

 薄闇のなかで、琥珀の瞳がゆらりと笑う。


 向かう先は、【裁可宮】。

 王でさえ軽々しく足を踏み入れぬ、断罪の宮殿である。

 そこには既に、ひとりの下級貴族が引き立てられていた。

 かつて貧民窟を支配した小さな領主──

 今は「功績」を買われて爵位を得た成り上がりの下級貴族である。

 男の名は、ノーリス。

 レイシアの視線が、床へ跪かされた男へ、静かに注がれる。

「……影妃様……!」

 ふるえる声で、男はレイシアの足元に平伏した。その脂ぎった首筋を男が震わせるたび、成金特有の卑しい余裕が、いやでも目についた。

「……お久しぶりです、と、申し上げるべきかしら」

 レイシアは、ゆっくりと椅子に腰かけた。男はびくりと肩を震わせる。


 高い天窓から差し込む薄明かりが、肩甲骨のあたりに刻まれた花紋の輪郭を浮かび上がらせる。

 ノーリスの顔から血の気が引いた。

「ま、まさか……お前は、あのときの──」

「思い出した?あのときの、灰かぶりの小娘が、わたしよ」

 ひっ、と男は息を詰まらせた。

「あの時の小娘なんか、とっくに死んだと思っていたんでしょうねえ?」

 レイシアは嫣然と微笑む。そして確認するように、ゆっくりと言った。


「約束を、破ったわね?」


 配下の侍従が書物を広げた。

 そこには、列挙された男の罪状が、連綿と記されている。

「ノーリス。あなたの罪を教えてあげる。影妃輩出家としての義務を著しく怠り──」


 底冷えするようなレイシアの声が、裁可宮の固い床に響く。


「影妃選定の報奨金を横領。貧民窟の子どもたちを保護するどころか、娼館・下男下女として売買し、私財を肥やした」


「ち、ちがう! あれは、すべて、この国のための──」


「国のため?」

 レイシアが、初めて足元に跪く男へ視線を落とした。

「あなたの“国”とは、いったいどこかしら。あなたの懐の中?」


 柔らかな声音のまま、言葉だけが鋭く突き刺さる。


 侍女ミラが書面の続きを読み上げた。

「貧民窟の疫病蔓延時、治療も隔離もせず放置。影妃の身代わりとして差し出した少女の名義で報奨を受け取り、その実体を偽装──」


 ノーリスの喉が、ひくりと震えた。

 レイシアは椅子の肘掛けに指をあて、そっと爪で木目をなぞる。

 静かに、過去の光景が脳裏に滲む。


 煤けた路地裏。

 腐った水の臭い。

 すすり泣きの中で、小さな手を握っていた記憶。


 ──命を差し出す代わりに。

 貧民窟の子たちを守ってほしい。助けてほしい。

 あの日、領主の執務室で、必死で懇願した。

 約束を。

 ノーリスは、笑って手を打ったのだ。

『安いものだ。お前の命ひとつで、全部片がつくならな』

 あれほど、懇願したのに。そのために、命を差し出したのに。影妃の苦しみに、耐えたのに。

 約束を踏みにじった。

 レイシアの琥珀色の瞳が、殺気立って鋭く光る。


「ねえ、ノーリス伯」

 淡い笑みさえ浮かべて、レイシアは問いかけた。

「覚えてる?あなたが踏みにじり、辱め、売り飛ばした、子どもたちの顔を」

「……っ」

「覚えているわけがないわよね。あの約束も、あなたにとってはどうでもよかったのでしょう」


 レイシアの声を聞きながら、ミラの拳が、袖の下でぎゅっと握られる。


 疫病で熱に浮かされ、路地に捨てられたみなしごにたったひとり、手を伸ばしてくれた少女。まだ影妃と呼ばれる前のレイシアの面影を、ミラははっきりと覚えている。

 (レイシア様は──自分の命を差し出して、子どもたちの未来を買おうとしたのに。)

 ミラは奥歯を噛みしめ、絞り出すような声で言った。

「影妃様。この者の罪は明白でございます」

「そうね」

 レイシアは立ち上がる。

 長い礼服の裾が、石床をすべった。

 ノーリスに歩み寄り、その目の前に立つ。

 彼女の影が、男の顔半分を覆った。

「影妃輩出家への報奨は、本来、“影妃の命”と引き換えのもの。あなたは、自分の娘を守りたかった。それは否定しないわ」

 静かに、レイシアは言う。

「だから、代わりに、わたしが行った。あなたの大事な娘の身代わりに、わたしが神殿の捧げものになった。王の魔力の受け皿という役目を引き受けたのよ。

 命と引き換えに、子どもたちの未来を望んだ。 ──なのに、あなたはそれを破った」

 琥珀の瞳から、温度が消える。

「ならば」

 淡々と宣告を下す。

「影妃としてではなく、レイシアとして裁くわ」

 その名を、自分の口で言ったのは、宮殿に来て初めてだった。

「ノーリス伯家の爵位・領地・財産、および影妃報奨金の全額を剥奪・没収。

 おまえは生涯辺境の地で労役に従事なさい。死ぬことは許さない。贅と安逸の代わりに、泥と血を噛んで、生きて償いなさい」

「お助けください、影妃様!どうか──」

 悲鳴は最後まで言葉にならなかった。

 両脇を固めた兵たちが、容赦なく引きずってゆく。


 レイシアは、その背を一瞥しただけだ。

 背花が、じくりと灼ける。

 ──この背が焼け切れるその日まで。

 最悪の女を演じ切る。


 それが、せめての矜持だった。


 ◇ ◇ ◇


 容赦ない断罪のあと、レイシアはひとり神殿の奥へ足を向けた。


 誰も寄りつかなくなった古い翼廊を通り、色あせた壁画と、崩れかけた祈りの像の横を過ぎた。そのさらに奥に、古い書庫があることを知っているのは、おそらくレイシアだけだ。

 時間に忘れ去られたような古びた重い扉を押し開けると、古紙の匂いがふわりと鼻をかすめた。

「……やっぱり、落ち着くわね」

 燭台に火を灯し、壁一面の棚に並ぶ古書の背表紙を指先でなぞる。


 最初に文字を覚えたのは、貧民窟の礼拝所の片隅で、埃をかぶっていた古い書物を見つけたことがきっかけだった。

 ーー王の名前よりずっと前に知った、無名の神々の名。名も知らぬ島の物語。

 本が好きだった。人々に捨てられた書物を夢中で読みあさった。


 レイシアは膨大な書棚から無造作に一冊を抜き取り、簡素な木の机に腰を下ろした。

 しかし今日は、頁を開いても、文字が頭に入っらない。集中できない。

 さきほどのノーリスの顔が、脳裏に残像を残す。


(……わたしは、本当に正しいことをしたのかしら)


 救えなかった子どもたち。

 見殺しにしたわけではない。でも、間に合わなかった。

 もっと早く、気づくべきだった。


 あの時、自分がもう少し賢ければ。

 もっと違う条件を、違う形を、掴めたのだろうか。


 胸がきしむ。


 たとえ何をしたところで、

 死んだ子どもたちは戻ってこない。


 私怨を晴らすための、復讐が、本当に正しかったのか、レイシアは自問自答する。

 後悔と自己嫌悪が、じわじわと胸の内側から心を凍らせてゆく。

 レイシアは立ち上がり、書棚のが柱に寄り掛かった。


 頭を冷やしたかった。

 怒りでもない、悲しみでもないなにかが、胸の奥で渦を巻いている。


 そのときだった。


「……にゃぁ」


 足元で、小さな声がした。


「?」

 視線を落とすと、なにやらふわふわとしたやわらかい塊が、ドレスの裾に絡んでいた。

 よく見ればそれは塊ではなく、柔らかな赤毛の小さな猫だ。

 ふんわりとした毛並みの、月影を丸めたような小さな身体と、珍しい翡翠色の大きな瞳。

「にゃあ」


「まあ……おまえ、どこから入り込んだの?」

 レイシアは思わずしゃがみ込む。

 仔猫はためらいなく、彼女の膝に前足をかけた。

 明るい緑色の瞳が、レイシアの琥珀の双眸を見上げてくる。


「ふふ……物好きな子ね。こんな薄暗いところに」


 そっと抱き上げる。

 小さな胸が、規則正しく上下している。

「きれいな毛並みだわ。…どこぞの貴族たちの飼い猫かしら?」

 温かい。


 貧民窟で抱き上げた、小さな子どもたちの体温と、どこか似ていた。


 仔猫はごろごろと喉を鳴らした。

 胸の奥の靄が、ほんのわずかに薄らいでいく。

「おまえ、かわいいわね」

 思わず笑みがこぼれる。花のように、レイシアは笑った。


 ◇ ◇ ◇


 書庫の入口近く、

 影に紛れて二つの気配がうかがっていた。


「……ジンのやつ、ずいぶんあっさり懐かれてますねぇ」

 弓の名手のツヴァイは、目が良い。ふだんは王にしか懐かない気の荒い獣人族の少年が、黒髪の美女のされるがままになってデレデレしている姿を遠目に見ながら、呟く。――王が命じた密偵。影妃を観察する獣。…のはずが、無垢な仔猫のフリをして影妃の腕の中に気持ちよさげにおさまっている。

「厳禁なやつ」

 ぶすっと呟いたツヴァイの隣で、だんまりと腕を組むゼクスの表情は、読めなかった。


 レイシアが仔猫を抱き上げ、頬を寄せて笑う。

 影妃としての仮面ではない。

 無防備な、どこか危うい少女の笑み。


 胸がざら、と音を立てて乱れた。

「……ふざけたやつだ」


「…というと?」

 ツヴァイは肩をすくめる。

「影妃に猫一匹寄り添うことを許さないなんて、まるで狭量な男の嫉妬じゃありませんか」

「違う」

 即座に、ゼクスは切り捨てた。

「監視役の任務を忘れて、あれではただの飼い猫だ」

「飼い猫。……いい響きですねぇ。

 いずれ、“飼い主”はどちらか、はっきりするでしょうよ」

 10年以上を王と戦場で過ごしてきたツヴァイの軽口に、ゼクスは答えない。


 ただ、離れた場所から、

 嬉しそうに仔猫を胸に抱くレイシアの姿を見つめていた。


 怒りとも違う。

 憐れみとも違う。

 あれは誰だ?

 消え入りそうに儚げに笑う、あの娘は?


 祝宴の一件以降、影妃に監視をつけた。

 出自も生い立ちも綿密に調査させた。

 影妃輩出を拝命した下級貴族たちは、こぞって貧民窟の孤児を「買って」、影妃候補として神殿に捧げた。当時、大規模な人身売買が横行しており、中には影妃輩出の報奨金目当てに複数の幼い子供たちを買い付ける貴族たちもいた。


 名のつけられない感情が、

 じわじわと胸の内側からせり上がってくる。


「陛下。とりあえず、影妃との距離を詰めるところからはじめてみては?」

「どういう意味だ」

「オルフェンが言ってましたよ。まずは食事。それから一緒に外出を。贈り物も忘れずに、と」

「影妃を餌づけしろと?」

「まあ、そう難しく考えず。

 魔力調整の名目で、同席を求められればよろしいじゃないですか。

 ……誘う口実なんか、オルフェンが張り切っていくらでも用意しますよ」


「くだらん」

 吐き捨てるように言いながらも、完全には否定できなかった。

 あどけなく笑う黒髪の少女に、一瞬、目がくぎづけになった。

「……食事は、一度だけだ」

 ゼクスは低く言う。

「一度で済めばいいですねえ」

 からかうふうでもなく、飄々と弓の名手は返した。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


ゼクスと影妃の距離はまだ遠いまま。

それでも、確実に何かが動き出しています。


もし少しでも続きを気にしていただたなら、

ブックマークしていただけると励みになります。

よろしくお願いいたします。

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