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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第49話 海戦

 夕闇が、港を飲み込んでいく。


 ひとつ、またひとつと、灯が消える。


 居酒屋のランプ。

 商館の窓明かり。

 船の松明。


 やがて――港は、闇に沈んだ。


 だが、完全な闇ではない。


 月がある。

 星がある。

 海が光を返している。


 桟橋に立つゼクスの赤髪だけが、微かに浮かび上がる。


 遠くの海賊船がざわめいた。


 帆が動く。

 船首が揺れる。


 闇に慣れていないのは、彼らの方だ。


 月は、ほとんど円を成していた。

 だがまだ満ちきらない。


 静かすぎる夜だった。

 風は止まり、波は低く、港の灯はすべて落とされている。

 闇の中、桟橋に横付けされたゼクスの船だけが、黒い輪郭を浮かび上がらせていた。


 甲板に立つ男たちは、声を発しない。

 ただ海を見ている。


 オルフェンは、腕を組んだまま水平線を睨んでいた。

 サン・バルトは、桟橋の縁に腰を下ろし、無言で煙管をくゆらせている。

 ジンは舷側に背を預け、薄く笑っていた。


 最初に知覚したのは、潮の変化だった。


 遠くで、低いうねりが起きる。

 それは風でも、船でもない。

 深海が、わずかに身じろぎしたような震動だった。


「……来る」


 ゼクスが低く言う。


 剣はまだ抜いていない。

 だがその指先は、舷側に軽く触れていた。

 まるで、海の鼓動を測るように。


 沖合。

 黒い帆影が、いっせいに動いた。

 昨夜より近い。

 しかも――数が増えている。


 八隻。

 いや、十隻。


 月光に照らされた帆が、獣の歯のように並んでいた。


 サン・バルトがゆっくり立ち上がる。

「包囲を狭めてきやがった」

 オルフェンの声が鋭くなる。

「狙いは香石だ。王鯨が浮上する前に港を制圧する気だな」


 そのとき。


 海賊船の一隻が、火矢を放った。


 赤い軌跡が夜を裂く。

 しかし矢は港に届く前に、風に押し戻されたかのように失速し、海へ落ちた。

 港側がざわめく。

 ゼクスは動かない。

 だが、足元の船板がかすかに震えていた。


 次の瞬間。


 一隻目が、全速で突っ込んできた。

 狙いは桟橋ではない。

 港の出入り口――潮の流れが細く絞られる場所だ。


「塞げ!」


 サン・バルトの声。

 港の小舟がいくつも押し出され、航路をふさぐ。

 だが、海賊船は止まらない。


 そのとき、ゼクスが一歩前に出た。

 剣を抜く。

 刃が月光を受け、冷たく光る。

 船縁を蹴る――最初の一隻の舷側に飛び移る。

 剣が閃く。

 舵が折れた。


 次の瞬間、船体が横に流される。

 悲鳴。混乱。


 だが海賊は怯まない。

 二隻目が、横から迫る。

 火矢が降る。

 ゼクスは剣を振り下ろした。


 風が裂けたように見えた。

 火矢が、空中で散った。


 港から歓声が上がる。

 海賊船が三隻、同時に動いた。


 中央突破。

 左右からの挟撃。


 完全な包囲戦術。


 オルフェンが声を張る。

「港の舟を散開させろ!正面はゼクスに任せる!」


 カインが舷側に飛び乗り、港の酒樽をいっせいに転がす。

 それはただの樽ではない――

 中身は油だ。


 火矢が落ちた瞬間、海面が炎に染まる。

 海賊船が怯んだ。

 だが一隻は突き進む。

 その船首に、ゼクスが立ちはだかった。


 刃を振るう。

 帆が裂ける。

 マストが軋む。


 次の瞬間――


 海が大きくうねった。

 深海から、低い震動が立ち上る。

 それは、歌だった。

 誰もが動きを止めた。

 海賊も、港も、ゼクスすらも。


 王鯨が――来る。


 ◇ ◇ ◇


 月は、海面を冷ややかに白く磨いていた。


 だがその光は、もはやただの月光ではなかった。

 海の奥底から湧き上がる気配に呼応し、水そのものが淡く発光しているかのようだった。


 遠い闇が――ゆるやかに、しかし確実に隆起する。


 闇の中のうねりはやがて輪郭を持ち、巨大な背が浮かび上がる。

 それは島影のようで、山脈のようで、同時に生き物だった。


 王鯨――。


 その皮膚は、長い歳月を刻んだ樹木の幹のように厚く、硬く、重なり合っている。

 無数の古傷が年輪のように渦を巻き、淡く光を帯びていた。

 それぞれの傷が、百年分の潮流と嵐、そして失われた命の記憶を語っているかのようだった。


 海賊船は、もはや帆を張ることも舵を切ることもできない。

 風も波も――王鯨の鼓動に従って静止していた。


 ゼクスはゆっくりと剣を収め、甲板の中央に立った。


 そのとき、王鯨の歌がさらに深く沈んだ。


 それは音というより、海底から立ち上る震え。

 耳で聞くものではなく、胸骨の奥で受け止める響きだった。

 悲しみでも恐れでもない――終わりを知り、受け入れた者だけが持つ静謐。


 そして――海面が、音もなく割れた。


 まず現れたのは、巨大なヒレ。

 夜の海をゆっくりと押し分け、月光を弾き返すように鈍く輝く。

 その表面にも、幾重もの古傷が走り、星の光を縫うように淡く発光していた。


 その背後――闇の底から、王鯨の巨体がさらに浮上する気配があった。

 海そのものを背負って現れた存在。

 人の歴史より長く、潮より深く、月より遠い時間を生きてきたもの。


 ゼクスは甲板に立ったまま、動かない。

 ただ静かに、その出現を見届けていた。


 それはもはや生き物ではなく、海そのものの記憶だった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

もし少しでも続きを気にしていただたなら、

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