第47話 香石のいざない
満月までの日々は、奇妙なほど濃密に流れた。
ゼクスの船は、港の造船桟橋に横付けされている。
そこは普段、誰も近づかぬ場所だった――禁海に最も近い水域ゆえ、潮の癖が悪く、古い船を飲み込んだ歴史がある。
しかし今、その一角は生き物のように脈打っていた。
夜明けとともに木槌が鳴り、鋸が唸り、鉄が軋む。
裂けた船腹には新しい板があてがわれ、焼け焦げた梁は抜き取られ、潮に強い黒木が継がれていく。帆布は洗われ、縫い直され、索具は一本ずつ張り直された。
港の職人たちは、まるで祭りのように働いた。
誰も「王の船」とは口にしない。だが、その手つきには誇りが宿っていた。
夜になると、修繕場の松明が波に揺れ、炎が船体を金色に照らした。
船首に立つゼクスは、作業を一つひとつ見守っていた。
命じるでもなく、鼓舞するでもなく、ただ黙って潮の動きを読むように立っている。
夜になると松明が灯され、炎が船体を金色に染めた。
波に揺れる光が、ゼクスの影を長く伸ばす。
その影は、ときに深海の獣のようにも見えた。
そして海は、満月が近づくにつれ、静かに牙を研いでいた。
波は荒れていない。風も乱れていない。にもかかわらず、港の空気そのものが張りつめている。
潮の匂いが濃くなり、深海の底から重い鼓動が響いてくるようだった。
ゼクスは、その変化を皮膚で感じていた。
目に見える嵐ではない。だが、血管の奥を冷たい潮が逆流するような感覚がある。呼吸をすれば胸の奥に潮が満ちて血が沸き立つ気配を感じ、足裏には海底のうねりが伝わってくる。
王鯨が動く夜が近い——。
日ごとに、香石の匂いが濃くなっていく。
甘く、重く、どこか毒を孕んだ香り。
王都では値千金の宝物。神殿が欲しがる聖物。
そして――欲に駆られた者たちを呼び寄せる餌。
沖合いには、見慣れぬ帆影が増えた。
海賊船だ。
遠巻きに港を観察し、潮の流れを測るように漂っている。
誰も口にしないが、皆が知っていた。
――満月が近い。
◇ ◇ ◇
ゼクスは、ほとんど商館から離れなかった。
昼は船の修繕を見守り、夜は必ずレイシアの館に戻る。
会議でも、視線はしばしば彼女に向かう。
書簡を読むときも、気づけば距離が縮まっている。
離さない、というより――離せない、に近かった。
それは執着というより、潮の満ち引きに抗えないような自然さだった。
互いの存在を求め合っていることは誰の目にも明らかだったし、ゼクスはもはやそれを隠そうとはしなかった。
レイシアが執務机に向かえば、背後に立つ。
港の窓を開ければ、すぐ隣に並ぶ。
寝室へ戻る廊下では、歩幅を合わせ、さりげなく外套を肩にかける。
言葉は少ない。だが、互いの気配が重なる。
◇ ◇ ◇
その夜、ふたりは港を見下ろす窓辺に並んだ。
飽和が近い月は、海面を淡く白く染めている。
「海賊船とは、一触即発の雰囲気ですね」
レイシアが静かに言う。
ゼクスは視線を水平線へ向けたまま頷いた。
「王鯨が近くまできているんだろう。香石の匂いがどんどん濃くなる」
風が運ぶ匂いは、甘く、重く、肺の奥に絡みつく。
海そのものが香っているかのようだった。
「砕いて粉末にすれば……高価な香料の材料になるそうです」
レイシアは港の闇を見つめたまま続ける。
「媚薬として扱われることもあるとか。かなりの高値で取引されるようです。流通量が極めて少ないので、販路の拡大はむずかしそうですが…」
「媚薬、な」
ゼクスはわずかに身を寄せて、レイシアの耳元で低く囁いた。
からかうように――唆すように。
「それは仕事の話か?」
「え?」
ゼクスはさらに距離を詰めた。
互いの吐息が、ほとんど混ざる。
「それとも――おれを誘っているのか」
香石の匂いが、ふたりのあいだで深く濃くなる。
月光が、レイシアの横顔を淡く照らしていた。
「お前がその気になってくれるのなら」
声が落ちる。
低く、柔らかく、しかし抗えない響きだ。
「そういう趣向で、たかぶりあってみるのも、悪くないな?」
レイシアは、すぐには答えない。
窓の外――満月に近い空がほのかに白く光り、遠くで海賊船の帆影が揺れていた。
息をするように自然に――
当然のように、ゼクスはレイシアの髪に口づけ、細い腰を引き寄せた。
「…昨晩も」
レイシアが、息だけで言う。
「足りない」
ゼクスが、低く笑った。
燭台の明かりが、ふっと落ちる。
香石の匂いは、さらに濃く、深く、ゆっくりと海へと広がっていく。
満月まで――あとわずか。
王鯨が動く。
海賊が迫る。
封印核が、深海で震える。
◇ ◇ ◇
満月前夜を越えた朝、港の空気が変わっていた。
目に見えるものは何も変わらない。
いつも通り潮が満ち、いつも通り海鳥が鳴き、いつも通り網が干されている。
しかし、桟橋の下の水が、やけに静かだった。
波が立たないのではない。
立つ前に、押し返されているような静けさだ。
港の古参たちは、言葉にせず顔を見合わせる。
それが何を意味するのか、彼らは知っている。
「……潮が止まる時は、なにかが起こる」
サン・バルトが短く言った。
その声は、冗談を許さない。
ゼクスは桟橋の端に立ち、視線を沖へ向けていた。
水平線の彼方――黒い帆影が昨日より増えている。
桟橋では修繕が最終段階に入っていた。
船腹の板は隙なく継がれ、梁は黒木で補強され、帆布は張り直され、縄は新しい油を吸って滑らかに光る。
まるで――ただの船ではなく、戦うための獣が仕上がっていくようだった。
◇ ◇ ◇
昼、商館の執務室には、修繕の進捗と海賊の動きが報告として積み上がっていた。
レイシアは机上に地図を広げ、潮目と風向きの記録に目を走らせる。
港の帳簿、物資の在庫、人足の割り振り、医療の準備、避難経路。
戦いの準備というより――“港を生かす準備”だった。
「海賊は一気に突っ込んでは来ない。満月まで待ちましょう」
レイシアが言う。
それは推測ではなかった。
「香石が王鯨から輩出されるのは沈降の最中です。彼らは“その瞬間の混乱”を待っている。港の防備が薄くなったところを狙うはず」
「わかっている」
ゼクスは、軽く言い切ったあと、レイシアの髪に触れた。
ほんの少し、指先で撫でる程度。
だが、その所作だけで場の空気が変わる。
レイシアが顔を上げる。
「……ゼクス様。私の話を聞いています?」
「もちろん」
答えは短い。
オルフェンが咳払いをした。
「公私の区別を——」
「区別できるから、やっている」
ぬけぬけと言う。
反論が成立しない。
オルフェンは苦虫をかみつぶしたような表情でゼクスを睨む。
レイシアが、小さく息を吐く。
怒っているのではない。
諦めたのでもない。
――慣れてしまいそうなのが、怖かった。
「明日から、港の灯を落とす。夜の動きは、こちらが握る」
ゼクスが告げる。
オルフェンが眉をひそめる。
「領民の不安が——」
「どちらにしろ不安は消えない。なら、恐怖を“形”にしてやる」
不敵に、ゼクスは笑った。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
もし少しでも続きを気にしていただたなら、
ブックマークしていただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




