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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第46話 鮫人の伝説 

 その日の昼、商会との正式な交渉が始まった。

 商館の広間は、潮の匂いを含んだ空気で満ちている。

  港の主だった者たちが、円を描くように立っていた。

 誰一人、椅子に腰を下ろさない。

 ——値踏みしている。

 誰が主導権を握るのか。

 誰の言葉に、どれだけの重みがあるのか。

 その中心に、ゼクスが立っている。

 外套を脱いだその姿は、武装も誇示もない。

 それでも、近づくことをためらわせる不思議な圧があった。

 沈黙を破ったのは、カインだった。

「船の修繕なら請け負える。だが安くはありませんよ、王」

 わざとらしい呼び方に、空気がわずかに揺れる。

  数人が、思わずゼクスの顔を見た。

 ——王都の王は、今、不在のはずだ。

 だが、その容貌。

  背丈。

  無駄のない立ち姿。

(……噂と、あまりにも合致している)

 誰かの胸に、拭いがたい疑念が生まれる。

 オルフェンが、鋭くカインを睨んだ。

 出自を暴露するな、という視線だ。

 ——これ以上、踏み込むな。

 だがカインは肩をすくめるだけだ。

「はっきり身の上を明かしていただいたほうが、こちらも動きやすい」


 冬至節以来、王都ではひとつの噂が囁かれていた。


 王が——変わった、と。


 かつての姿とは違う。

 より鋭く、より深く、まるで海の底を思わせる容貌に変化した、と。


 鮫人族との混血王。

 冬至節に覚醒した血。

 それが赤い髪と瞳に現れたのではないか——。


 港にも、その噂は、潮とともに流れ着いている。


(……まさか)


 誰も、口には出さない。出せるはずもない。

 だが、その場にいる多くの者が、円の中心に立つ赤髪の男から、視線を逸らせなくなっていた。

 ゼクスは、しかし、微動だにしない。

「構わん」

 即答だった。

「必要な資材と人足を出せ。費用は払う」

 ざわめきが起きる。

 王が。

 奪うのではなく、命じるのではなく、対等の立場で、交渉しようとしている。

 港の空気が、わずかに変わった。

 そのとき。

 円の外から、ひとりの老人が一歩前に出た。

 白髪。

  潮に焼けた肌。

  古参中の古参——商船団の頭領、サン・バルド。

「……あんた」

 しわがれた声が、広間に落ちる。

「海の匂いがするな」

 一瞬、場が静まる。

 バルドは、じっとゼクスを見据えた。

「血に、潮が混じってる」

 誰も、その意味をすぐには理解しない。

 だが、バルドは続けた。

「……昔な。鮫人族と取引したことがある」

「あいつらは潮のリズムと周期をからだに刻んで生きてる。深みでも浅瀬でも呼吸が乱れねえ。波が、あいつらに合わせて道を開けるように見えた」

 ざわり、と空気が揺れた。

「それだけじゃない。昔から、鮫人の肉を口にした者は歳を取らねえと言われてきた。欲に目がくらんだ権力者が、何度も何度も海を血で汚した」

 ——不老不死。永遠の若さ。


 ゼクスはその言葉を、ひどく冷たいものとして胸の奥で受け取った。


 永遠とは祝福ではない。

 止まった水と同じだ。

 流れなければ澄まない。

 巡らなければ生まれ変わらない。

 人が老い、傷つき、やがて死ぬからこそ、次の命が芽吹く。

 海が満ちては引き、荒れては凪ぐからこそ、魚は増え、珊瑚は育つ。


 だが——不老不死とは、その循環を断ち切ることに他ならない。


 朽ちるべきものが朽ちず、返されるべき命が海に還らない。

 それは祝福ではなく、澱み(よどみ)だ。

 深海の底で動かなくなった水のように、内側から腐っていく。


 ——最後に、母を見た日の記憶が、よみがえる。


 神殿の白い回廊。

 潮の匂いと、鉄の匂いが混じった空気。


 惨殺された母の背から、無理やり剥がされた虹色の鱗。

 それは祈りの石台に据えられ、禁海結界の封印核として前世代の香石の中に埋め込まれた。


 僧衣の神官たちは、恍惚の笑みで囁いていた。

「これで海は安らぐ」と。


 だが、彼らが求めたのは安寧ではなかった。

 支配だ。


 母の肉が切り取られ、秘薬として配られたという噂も、ゼクスは知っている。

 永遠を欲した者たちが、それを口にしたことも。


 そのたびに禁海は荒れ——そして深く、澱んでいった。


 ゼクスはそのすべてを胸に刻んでいる。

 ——取り戻す。

 失われた循環を。

 奪われた自由を。

 ヒトが海を縛り、森を縛り、命を縛ったこの歪みを、ほどく。

 影妃制度を終わらせる。

 人を「道具」として囲い、権力の装置にする仕組みそのものを壊す。


 クリシュナの花紋を解放する。

 神殿が押しつけた枷を外し、花が本来のかたちで咲く道を開く。


 それは王の支配を強めるためではない。

 ヒトの支配から自然を解き放つためだ。


 森羅万象が、みずから満ちては引き、壊れては生まれ変わる——

 その当たり前のかたちを、取り戻すために。


 その第一歩が、いま目の前の海にある。


 深海の再生。

 封印核の解放。

 そして——母の形見である鱗を、あるべき場所へ還すこと。


 ゼクスは静かに息を吸った。

 潮の匂いが胸を満たす。


 ——この海から、すべてを始める。

 おんなと、こどもが生きる、この場所から。

「…だが、鮫人が姿を見せる時は、たいていろくなことが起きねえ。嵐の前触れ、地鳴りの兆し、疫の匂い——海が怒る時に、あいつらは先に現れる」

 バルドは、ゼクスをまっすぐに見据えた。

「それでも——鮫人は“呪い”だけの種じゃねえ」

「泣けば涙が真珠になるとも聞く。水に濡れぬ布を織るとも言う。海に愛された者たちだ。だから俺は思う」

 少し間がある。

「あんたは……海に選ばれた側の匂いがする」

 ゼクスは、何も言わない。

 否定もしない。

 肯定もしない。

 ただ、視線を逸らさなかった。

 ゼクスが、口を開く。

「そっちのメリットを提示してやる」

 声は低い。

 だが、抗えない響きを持っていた。

「この海域に出没している海賊船。あれを駆逐する」

 静寂。

 次の瞬間。

「……本気か?」

 誰かが呟いた。

 サン・バルト船長が腕を組む。

  潮風に焼かれた顔が険しい。

「あいつらは群れる。軍船でも手を焼く相手だ」

 ゼクスの瞳が、わずかに細くなる。

「だからどうした」

 それだけだった。一歩も退かない。

 サン・バルトが、歯を見せて笑った。

「嫌いじゃねえ。その目だ」

 一歩、前に出る。

「だが、急いだほうがいい」

 空気が変わる。

「王鯨の沈降が近い」

 誰も口を挟まない。

「次の満月あたりだ」

 ざわめきが、今度は重く広がった。

 ゼクスは動かない。

 だが、内側では、時間の歯車が一気に回り始めている。

 鱗。

 香石。

 沈降。

 封印核。

 満月まで、あと幾日。

 船の修繕。

 海賊の排除。

 そして——沈降。

「……間に合うか」

 誰かの声。

 ゼクスは、静かに言った。

「間に合わせる」

 その一言で、議論は終わった。

 王がそう言ったのだと—— 誰もが、なぜか理解してしまった。

 サン・バルトが、深く頷く。

「いいだろう。あんたの船、俺たちが直してやる」

 カインが肩をすくめる。

「とんだ大仕事を抱えてしまったようですね、港は」


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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