第45話 秘められた鱗
夜明けは、なにもかもが満ち足りて、充足し、驚くほど静かだった。
波音すら遠く、潮の気配も薄い。
港町が、まるごと息をひそめているかのようだった。
こんなふうに安らぎに満ちて眠ったのは、いつ以来だろう——
母の隣で眠った少年の頃。はじめてレイシアを抱いて眠った夜。
…そして鮫人の血が覚醒してからは、ほとんど初めてかもしれない。
眠りとは、本来、こんなにも重く、やわらかなものだったのか。
ゼクスは目を閉じたまま、その感覚に身を委ねていた。
そのとき。
小さな力が、髪を引いた。
……ぐい。
もう一度。
赤い髪が、遠慮なく掴まれる。
ゼクスの瞼が、わずかに動く。
さらに引かれる。
反射的に手を伸ばしかけて——止めた。
どう反応するのが正しいのか、分からない。
戦場なら、迷うことはない。
だがこれは。
昨夜、自分の指をつかんで離さなかった、小さな少女の。
触れれば、壊してしまうのではないか。
そんなことを思って、仕方なく、されるがままになる。
今度は鼻をつままれた。
次に、頬。
むに、と引き伸ばされる。
「……」
額を、べし、と叩かれる。
もう一度。
べし!
ゼクスは、ゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに、リリィの顔がある。
いつの間にか目を覚ましていたらしい。
大きな蜜色の瞳が、自分をのぞき込む。
レイシアと同じ色だ、と思う。
少女は、不思議そうな表情で、ぶしつけなほどゼクスの顔を凝視している。
小さな手が、また髪を掴む。
「こら…」
ぐい。
むにっ。
べしべしべし!
かなり、痛い。
思わず、顔をしかめる。
リリィが、ケタケタと笑い出す。
澄んだ声だった。
ゼクスはしばらくその顔を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……まったく」
だが声は、驚くほど低く、柔らかい。
「あそぶ!」
むぎゅ、と頬とつねって、またも笑う。
「だめよ、リリィ。痛がっているでしょう」
くすくすと笑いながら、レイシアがリリィを抱き上げた。
「や!あそぶのー!」
「あとでね」
リリィを抱きかかえたまま、レイシアは窓を開けた。
光が、静かに部屋を満たす。
——なにもかもが、うつくしい。
おんなも。こどもも。
ゼクスは、寝台に横たわったまま、ふたりを見つめる。
——妻と、娘。
冷たいはずの空気が、やさしく流れ込む。
寝台に光が落ちた、そのときだった。
「あーそーぶー!」
リリィが身じろぎする。
子ども用の夜着がずれ、肩甲骨のあたりが、わずかに露わになる。
——きらり。
朝日を受けて、虹色の光が弾けた。
その小さなきらめきを、ゼクスは見逃さなかった。
一枚だけ。
左の肩甲骨のあたり。虹色の艶めきを秘めた、小さな鱗。
鮫人族の血が、色濃く表出している証。
ゼクスは、息を止めた。
一瞬で、理解する。
(……同じだ)
剥がされ、奪われ、封印核にされた——母の鱗。
汚染された海を鎮め、神殿が神脈を管理下におくために。
喉の奥が、熱を持って焼けた。
「……ゼクス様」
レイシアの声は、静かだった。
「この子は……鮫人族の鱗を持って生まれたようです」
ゆっくりと、秘密を打ち明けるような慎重さで、レイシアは続ける。
「不思議なのです。なんだか、この子の成長とともに魚が戻り、珊瑚が生き返りつつあるようで。…もちろん、わたしたちを含め、港の人々の尽力も大きいと思うのですが」
ただ、とレイシアは言った。
「…心配で」
ゼクスは、ゆっくりと起き上がり、ふたりを覆うように抱きしめた。
「……リリィの背の鱗を知っている者は?」
「ミラと、オルフェン。それから、カインです」
「…できる限り、秘めろ」
声は低く、鋭かった。
「隠せ。今は、まだ」
それは命令というより、懇願に近かった。
「知られれば——狙われる」
神殿に。
王都に。
この小さな命を守るためにやるべきことは、ひとつだ。
——神殿に依存しない、本来の〈循環〉を取り戻すこと。
レイシアは、黙って頷いた。
◇ ◇ ◇
翌朝——港は、妙な熱気に包まれていた。
魚を並べる手が止まる。
網を繕う針が宙で止まる。
水桶を運ぶ娘たちが、揃って振り返る。
「…見たか?」
「見た」
「男だろ?」
「男だったな……」
ひそめたはずの声が、まったくひそんでいない。
なんといっても——
彼らの指導者であり、領民の希望であり、時には<港の女神>とまで囁かれる商主レイシアが、男を連れて戻ってきたのだ。
しかも、その男。
「あのオルフェン長官が止めなかったらしいぞ」
「止めるどころか、公認だとよ」
ざわめきが一段、大きくなる。
「あの長官が認める男って、何者だ……?」
「戦士か?貴族か?どこぞの大商人か?」
——戦士でも貴族でも商人でもない。
この国の王だ。
口に出せば即座に大問題だが、もちろん、港の誰もそんなことは知らない。
その噂の渦中を、オルフェンは歩いていた。
漁場の市場の見回りである。
仕入れと帳簿の確認のため、ミラも同行している。
否応なく耳に入る声に、オルフェンの眉間に皺が寄った。
「どうやったら、あの長官に認められるんだろうな」
「リリィ様を溺愛し、レイシア様を崇拝して、商主に男を一切寄せつけさせないひとだぞ」
「もう、ほとんど保護者だよな」
——誰が、誰の保護者だ!
オルフェンは内心で呻いた。
心外にもほどがある。
商主に敬意はある。だが崇拝ではない。
主君の妻、場合によってはこの国の王妃候補だぞ。
ましてその娘を、溺愛などしていない。
……いや、リリィ・ココが特別なのは事実だが。
しかしそれは第一王位継承者だからであり、情ではなく、公務としての責任だ。
それに——
商主に近づく男を放置すれば、 ゼクスがどれほど怒り狂うか、目に見えている。
「カイン酒主だって、相当貢いでるらしいしな」
「あんな美形にもなびかないなんてさ」
「おれはてっきり、オルフェン長官かカイン酒主あたりが、リリィお嬢様の父親だと思ってた」
「俺も俺も」
——不届きな!!
ミラがそっと顔を寄せた。
「…オルフェン様、こめかみに青筋が」
「…分かっている」
噂は、止まらない。
「でもよ、見ただろ?あの赤髪の男」
「かなり威圧的な美形だったぞ」
「海賊船を片っ端から沈めてた船の頭だろ?」
尾ひれがつき、背びれまでつき、噂は瞬く間に形を変える。
やがて誰かが、小声で言った。
「……で、結局、商主の男は誰なんだ?」
一瞬の沈黙。
そして。
「やっぱりオルフェン長官じゃないのか?」
「いやいや、カイン酒主だろ」
「本命は赤髪男だな」
笑いが起きる。
「まさか、全員ってことは——」
「馬鹿言え!」
朝の空気が弾ける。
オルフェンは奥歯を嚙みしめた。
——ぐぬぬぬ…
だがそのとき、年嵩の漁師が腕を組んだ。
「誰でもいいさ」
皆がそちらを見る。
「商主が選んだ男なら、それでいい」
短い沈黙。
そして誰かが頷く。
港の人間にとって、血よりも重いものがある。
——信頼だ。
◇ ◇ ◇
「——早くお戻りになるよう、言いましたよね」
廊下に響いた声に、ゼクスはゆっくりと振り返った。
ゼクスの腕の中には、リリィがいる。
赤い髪をおもしろそうに弄びながら、ゼクスの外套を掴んで離さない。
「こら…からまる。やめろ」
たしなめても、二歳児はきゃらきゃらと笑うばかりだ。
「結局、レイシア様の寝室で朝まで過ごすとは……どういう了見でしょうか?」
淡々とした口調。
だが、機嫌が悪いのは明らかだ。
——まったくこの男は。港でどんな噂が立っているのか、知っているのか!?
「仕方ないだろう」
ゼクスは悪びれもせず答えた。
「リリィが手を離さなかった。気がついたら朝だった」
オルフェンが一瞬、言葉を失う。
その視線が、ゼクスの腕の中に落ちる。
「……」
リリィの瞳が、軍師の姿をみとめる。
そして一言。
「オルー、だっこ」
ゼクスの腕から、当然のようにオルフェンへと手を伸ばす。
「……ふん」
オルフェンは鼻を鳴らしながらも、リリィをきっちりと抱き取った。
「せいぜい、羨ましがるとよろしい」
ゼクスはわずかに言葉に詰まる。
「言っておきますが」
オルフェンは、あえて露骨に言い添えた。
「リリィが一番最初に話した言葉は、わたしの名前ですからね」
その背後で、ミラが小さく笑った。
「なにしろ、レイシア様はお忙しいですから。自然と、お嬢様の相手はオルフェン様や私の役目に」
「…ほお?」
おもしろくなさそうに、ゼクスは侍女の話に耳を傾ける。
「オルフェン様は、お嬢様のこととなると人が変わりますし。帝王学を叩き込むだの、英才教育を施すだの、ずいぶんと息巻いておられましたが……」
侍女は肩をすくめる。
「結局、お嬢様にいいように振り回されています」
「……まだ、リリィは小さいわよ」
少し離れたところで、レイシアが苦笑しながら言った。
「でも」
視線は、リリィから離れない。
「オルフェンは——誰よりも大事なあなたの娘を、誰よりも必死に育ててくれています」
その言葉に、ゼクスは黙る。
胸の奥に、わずかな苛立ちが残る。
だが同時に、ふ、と笑みがこぼれる。
——借りができた。そして、自刃して傷ついた軍師を、レイシアのそばに置いた判断は、間違っていなかった。
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