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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第44話 星空とリリィ・ココ

 ――正直に言おう。


 ツヴァイは、その場で座り込みたかった。

(……なぜ、こうなる)

 甲板に残された簡易甲冑。

 夜気に揺れる髪の残り香。

 そして、船室の奥へ消えていった――王と、影妃。

 いや。

 元・影妃。現・港の商主。母。軍略家。ついこの間、ウチの船をこてんぱんにたたきのめして沈めかけた張本人。

(情報量が多い……)

 頭が処理を拒否している。

「……」

 ツヴァイは、そっと腹部を押さえた。

 きり、と嫌な痛みが走る。

(胃だ。これは確実に胃にきてる)

 王都を出て一年半。

  寄港地ごとに襲ってくる、ノアの嫌がらせのような政務。

  王鯨の痕跡。

  禁海。

  海賊。

  沈降。

  香石。

 そこに、レイシア様。

(いや、再会する可能性は想定していた。

 だが、まさか――このタイミングで? この手段で?)

 ツヴァイは深く息を吸い、吐いた。

 ――落ち着け。


「ツヴァイ」

 聞き慣れた少年の声に、背筋が伸びる。

 振り向くと、ジンが柱にもたれていた。

 片腕を押さえながら、にやにやとどこか楽しそうな顔だ。

 さては、すでに何もかもを知っている顔だな、とツヴァイは察する。

「お前……戻ったのか」

「一応ね。港の用心棒、思ったより強くてさ」

「……で?」

 ツヴァイは、あえて甲板の奥―― 閉ざされた船室の扉を見ないようにして言った。

「どういう状況だ」

 ジンは肩をすくめる。

「簡単に言うと―― 王が一番会いたくて、一番会うべきじゃなかった人に再会した」

「簡単に言うな」

「しかも、その人がこの船を徹底攻撃してきた勢力の総司令官だった」

「簡単に言うな!」

 胃が、悲鳴をあげた。

 ツヴァイは額を押さえる。

(これは…… 外交問題か? 家庭問題か? 王権問題か? それとも全部か?)

「ゼクスは?」

「…私室に」

「え、もう影妃を連れ込んでんの?」

「いかがわしい言い方はよせ」

「止めなかったのかよ」

「止められると思うか?」

 ジンは黙った。ツヴァイも、分かってはいる。

 王はこの一年半、 剣を振るうよりも、 理性を保つことのほうが、 よほど苦しそうだった。

「……誰も入れるな、か」

 ツヴァイは、船室の扉を見つめる。

「ジン」

「ん?」

「今夜、最悪の事態は想定しているか?」

「してる」

「どこまで?」

「 王が正気を失って影妃を離さない? 影妃が王を刺す?港との全面戦争? とりあえず、そんなとこかな」

「ああああ……」

 胃が、再び痛んだ。

「ツヴァイ」

 ジンが、珍しく真面目な声で言う。

「ゼクスは、やっと見つけたんだ」

「……」

「逃がした女を。 置き去りにした未来を。 自分の選択の、答えを」

 ツヴァイは、目を閉じた。

(……だからこそ、怖い)

 感情で動く王は、ときに国よりも、海よりも、危険だ。

 だが。

「……見張りを固めろ」

 ツヴァイは、静かに命じた。

「誰も近づけるな。 港側にも、こちら側にも」

「了解」

 胃が痛い。裂けそうだ。

 それでも。

「……すべて、王の選択だ」

 ツヴァイは、夜の海を見つめた。

(どうか――この再会が、破滅ではなく、 “帰還”になりますように)

 その瞬間。

 船室の奥から、 何かが落ちる音がした。

 ――ガタン。

 ツヴァイは、そっと天を仰いだ。

「……神よ」

 胃を押さえながら、心の底から祈る。

「どうか、これ以上、問題を増やさないでください」

 増えるのだが。

 間違いなく。


 そして案の定、問題は発生した。

 いまや商会の実務を一手に担うオルフェンが、ただならぬ剣幕で船に乗り込んできたのだ。


「…おまえたち、よくも!!」

「まあ、落ち着け、オルフェン…久しぶりだな」

 ジンがぼやく。

「なんだよ…カインのやつ。結局、一晩ももたずにオルフェンに勘づかれてるじゃねえか」

「最初から察して乗り込んできたんだろう?少なくとも王が影妃に危害を加えることはない」

 ツヴァイは、なだめるように、二年ぶりの同胞に目をやる。

「元気そうで安心した」

「そういう問題ではない!」

 オルフェンが遮る。

「商主はどこだ!!」


 ◇ ◇ ◇


「オルフェンの声だわ」


「…仕方ないな」

 ゼクスは小さく息をついた。

「今日は、お前の返事に免じて、帰してやるか」


 荒々しい足音が、ゼクスの私室の前で、ぴたりと止まる。

「陛下」

「扉をお開けください」

 一拍。

「…蹴破るぞゼクス!!開けろこの馬鹿野郎っ!!」

 声音が、豹変する。


「分かった分かった」

 面倒くさそうな声とともに、扉が開いた。

 2年ぶりの、知己の再会とは思えない、険悪な雰囲気だ。


「まず、手順を踏んでもらいましょう」

 有無を言わさず、軍師は言い募る。

「レイシア様は、我が商会にとってかけがえのない首領です。港の希望であり、導き手でもある。そのお方を――商主を拉致同然に寝室へ連れ込むなど、下劣にもほどがあります!」

 ゼクスの眉がわずかに動く。

「妻に望むのであれば、それなりの礼儀と順番というものがあるでしょう!どこの骨とも知れぬ輩の女にするなど、断じて認められません!」

「要するに。…正式に名乗り、申込み、娶れ、と」

「その通りです。それができる状況にしてきましたか!?」

「いや。ともかくいろいろまだ中途半端だな」

「なら、速やかに商主をこちらお返しいいただき、あなたはまず自分の身の上をしっかりと整理してから出直しなさい」

「……結婚の承諾は、さっきもらったぞ」

 ぼそり、とゼクスがつぶやく。


「商主っ!!」

「はい」

 レイシアを鋭く一瞥して、軍師は言う。

「この男は甘やかしたらとことん図に乗る男です。こんな男にそう易々と夫の座を与えてはいけません!」

 冷ややかな声音だったが、瞳の奥は本気で怒っている。

「お前…むりやり王都を出したこと、まだ根に持ってるんだろう…」

「当然です!」


 レイシアは小さく肩をすくめた。


「ええと、ごめんなさいね、オルフェン…心配かけて」

「心配どころの話ではありません!」

 間髪入れず叱責が飛ぶ。

「カインめ…職務怠慢で解雇してやる」

「オルフェン、悪かったわ…そんなに怒らないで」

 レイシアは苦笑しながら言う。

 軍師の勢いは止まらない。もはや罵倒に近い。

「まったく、ふたりして何を考えているのです!こんな夜更けに母親が娘と離れるなど言語道断!!陛下ももっと父親の自覚を持つべきです!」

 ゼクスが顔をしかめる。

「わたしはリリィの夜泣きで一睡もできないんですからね!!」

 一瞬の沈黙。

 そして、ゼクスが小さく息を吐いた。

「…明朝、正式に商会を訪ねる。話はその時だ。今夜はもう勘弁してくれ。うるさくて仕方ない」

 ジンが口をはさむ。

「おれ、港で酒仕入れてきた。リリィ・ココって名前らしい。再開を祝して飲もうぜ」

 ツヴァイも言う。

「旧交をあたためよう、オルフェン」

 今後のこともいろいろ打ち合わせないと、と続ける。

「交渉のためなら話を聞こう」

 オルフェンはそう言って、ゼクスを正面から睨みつける。釘を刺すのを忘れない。

「陛下。お早いお戻りを。――くれぐれも商主の寝室に長居されませんように!」

「…小姑かお前は」

 笑いを噛み殺す気配が、周囲にわずかに広がった。


 ゼクスは外套を脱ぐと、何も言わずレイシアの肩にかけた。

「送ろう」

 夜気は静かで、やわらかかった。

 見上げれば、満天の星。

 幾星霜を越えて瞬く光が、ふたりの行く先を淡く照らしている。



 ◇ ◇ ◇



 商館の廊下は、夜の静けさに沈んでいた。


 港の喧騒が嘘のように遠い。

 壁に掛けられた小さなランプだけが、淡く足元を照らしている。


 レイシアは足音を殺して歩いていた。

 その後ろを、ゼクスが続く。


 軍靴の音が響かぬよう、無意識に歩幅を調整している自分に気づき、ゼクスはわずかに眉をひそめた。


 ――戦場では、音を消すのは敵を殺すためだ。

 だが今は違う。


 レイシアが扉の前で立ち止まる。

「…眠ったのかしら?」

 声が、ほんの少しだけ柔らかかった。


 扉を開く。


 部屋の中は暗く、揺れる燭火がひとつ。

 ほのかに甘い匂いが、漂っていた。


 寝台の上に、小さな影がある。


 ゼクスは、動かなかった。


 いや――動けなかった。


 あまりにも、小さい。


 白い布にくるまれた身体は、腕に収まってしまいそうなほど頼りない。

 胸が、かすかに上下している。


 生きている。


 それが、不思議なほど鮮烈だった。

「リリィです」

 レイシアが囁く。

「あなたが以前、わたしに贈ってくださっでしょう…お母様の、画集。その挿絵の女の子の名前から、名付けたのです。…リリィ・ココ」

「…覚えている」

「ようやく眠ったのね…泣いていた跡が乾いてない」

 レイシアは、リリィの髪を愛しげになでる。

 ゼクスはゆっくりと近づいた。

 寝台を覗き込む。

 やわらかな産毛。髪の色は…ろうそくの灯に照らされて、淡いピンクゴールドに見える。

「…母と同じ髪の色だ」

「ええ。オルフェンもそう言ってました」

 閉じた瞼。

 小さな指が、布を掴んでいる。


 その指が、ぴくりと動いた。


 ――こんなにも、無防備な生き物があるのか。


 戦場なら、一瞬で死ぬ。

 守る術も、逃げる術も持たない。

 なのに。

 ゼクスの胸の奥で、なにかが重く沈んだ。

「……俺に、似ているか」

 気づけば、そんな言葉が落ちていた。

 レイシアが小さく笑う。

「…どうでしょう。不機嫌そうな顔は、あなたそっくりです」

 恐る恐る、指を伸ばす。

 触れるつもりはなかった。

 ただ、確かめるだけのはずだった。

 だが――

 小さな手が、ゼクスの指を握った。

 反射だったのか、偶然だったのか。


 ゼクスの指が、わずかに震える。


 剣を握るとき、震えたことなどない。

 数万の兵を前にしても、なかった。

 なのに。


(……なんだ、これは)


 胸の奥に、これまで感じたことのない感情が広がる。

 恐怖に似ている。

 だが、違う。


 もっと重い。

 もっと、抗えない。

「…リリィったら、離さないのね」

 レイシアが、優しく言った。

「気に入られたようですね」

 ゼクスは答えない。

 ただ、リリィを見つめていた。

 この小さな命が、泣き、笑い、やがて歩き出す未来を――

 一瞬、想像してしまった。


 その未来を脅かすものがあるなら。

 すべて、消し去ってしまおう。


「……眠っているな」

 ようやく、それだけ言った。

 声が、驚くほど低かった。

 レイシアは、ゼクスを静かに見つめる。


 外では、潮が静かに満ちていた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

もし少しでも続きを気にしていただたなら、

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