第43話 取り戻した夜
「王?商主をお招きしたのですか?くれぐれも失礼のないよう…」
甲板で言い争う声に、ツヴァイが駆け寄った。
そして、言葉が途切れる。
「…え?」
船室の灯が、揺れる。
その光に浮かび上がったのは、細い肩と、黒い髪。
女だ。
一瞬、理解が追いつかない。
だが、次の瞬間――王の腕が、その腰を強く引き寄せた。
「――!」
金属音。
女が身につけていた簡易の甲冑が、甲板に投げ捨てられる。
ほどけた髪が、夜気に流れた。
白いうなじ。
その奥、灯の揺らぎの中で――赤い刻印が、かすかに覗く。
ゼフィールの花紋。
「…………」
ツヴァイは、息を吸うことを忘れた。
「……影妃様?」
信じられない、というより――
信じてはいけない光景を見てしまった、という顔だった。
「誰も、おれの部屋に入れるな」
低く、命じる声。
次の瞬間、王は女を抱きかかえ、そのまま踵を返した。
躊躇はない。
迷いもない。
二年分の空白が、理性を削り落としていた。
◇ ◇ ◇
「…離…!」
「離さない」
扉が閉まる音が、夜を断ち切った。
ろうそくの灯が、船室を照らす。
「離すわけが、ないだろう」
ろうそくの灯の中で、男の顔が見えた。
「ゼクス様…」
名前が、勝手にこぼれ落ちる。頭が真っ白になる。
――これは、なに?なにが起こっているの?
夢?どうしてあの方がここに――
「二度と逃がさない」
抱きしめる手に、力がこもる。
それは欲情というより、むしろ、失う恐怖に近い。
「ちょっと…待って…」
「待たない」
「…話を!」
「話は聞いてやる。ただし」
低く、囁く。
「寝台の中でだ」
「ゼクス様!」
「お前をたしかめたい」
夢じゃないと。
腕の中の温もりが、現実だと。
レイシアのからだが、寝台に沈む。
逃れようとした女の背の刻印に、ゼクスは噛みつくように口づける。
堰を切った熱情に呑み込まれそうになりながら、それでも、レイシアは声を張り上げた。
「…リリィが泣いてます!」
「なに?」
ゼクスの動きが止まる。
「夜泣きするんです…ミラやオルフェンでは手に負えないはず」
「リリィ?」
かつて影妃に贈った母の画集――その挿絵に描かれていた小さな少女が、たしかそんな名前ではなかったか?
「リリィ・ココ…あなたの娘です」
沈黙。
「…隠さないのか」
「…隠したほうがよかったのですか」
静かな声音が、かすかに震えていた。
「わたしとのこと、後悔していると…あのとき、おっしゃったでしょう」
「後悔しているのは」
ゼクスは奥歯を噛みしめた。
「最初で最後の夜だと、決めたことだ」
抑えていた言葉が、堰を切ったようにあふれ出す。
「なぜ苦しいのか、なぜ会いたいのか、お前のいない世界が、なぜこんなに空しいのか退屈なのか、なぜ手放したのか、誰の目にも触れさせないように閉じ込めればよかったと」
ひどく苦しげに、切なげに、ゼクスの目が揺れる。
「どれほど探したと?…どれほど耐えたと?このおれが!」
「…わたしだって」
レイシアは、震える声で言った。
「あなたに触れたいのを、耐えています」
ゼクスは、しばらく彼女を見つめ――やがて、観念したように身体を離した。
ただし、絡めた指だけは解かない。
「で?」
王は寝台の縁に腰掛ける。
「…お前を抱くこと以外に、優先して話すべきこととは?」
「第一に」
レイシアは、はっきりと言った。
「わたしは商主です。交渉する気なら、手順をふんでください」
「急いでた」
「こんな誘拐まがいのやり方で連れてくるなんて…港の皆が心配します」
「ジンをやった。なんて名だっけ…カイン?お前の用心棒も黙認したぞ」
「え?」
どうりで――。アリ一匹侵入者をゆるさないはずのカインが、今夜に限ってそばにいなかった。
「…なにか起きているのでしょう?王都から離れて、こんなに禁海の近くまで、来られるなんて」
「禁海防衛だ。王鯨沈降が近いから、海賊船を駆逐していた」
ゼクスは、ふと思い当たったように目を細めた。
「そういえば、お前」
一瞬、間があった。
「……本気でおれの船を沈める気だったな?」
「あなたが海賊船などを装って禁海に近づくからでしょう!」
「…かなりの被害を被ったぞ」
「王鯨を迎えるために、禁海の静けさを担保したいのです。深海が息を吹き返すために」
「それで、ぼろぼろになった俺の船は、どうしてくれる」
「どうって」
「…からだで払え」
揶揄するような響きが、低い声にまじる。
「…ふざけないでください!」
「顔が赤い。もっと動揺してみろ」
「ゼクス様!まじめに取引の話を!」
ゼクスの指がレイシアの髪に触れ、そのまま、可笑しそうに女の黒髪に口づける。
「なら、おまえの商会に船の修繕を要求しよう。そのかわり、禁海に近づく海賊船は追い払ってやる。…悪い取引じゃないだろう?」
「…政務が、あるのでしょう?早く王都に戻らないと。…修繕をなるべく急がせなくては」
ゼクスは、黒髪に指をからませ、そのままレイシアの顔をぐいと引き寄せた。
「おまえ、分かっているのか」
「…なに…」
「おれは、お前の気を引くために、本気で、必死だ」
「なにを言っているんですか」
「結婚してくれ」
レイシアが、硬直する。
ゼクスは、膝をつき、レイシアの手を取った。
「なにを…」
「どうすればお前をつなぎとめていられるのか。どうすれば、お前の隣にいられるのか。ひたすら考えた」
その手のひらに、口づける。
「結論は、ひとつしかなかった」
顔をあげる。
「レイシア。結婚してほしい」
息を詰めるように、ゼクスは続ける。
「王位はいずれ退く。だが、それまで――お前の安否を、誰より先に知る資格がほしい。お前の隣で、夜を過ごす権利がほしい」
震えが、声に混じる。
「お前がいないと、息ができない」
沈黙。
「頷くまで、帰さない」
「それは脅迫です」
レイシアが、目を伏せる。
「…リリィが泣いてるのをほおっておけと?」
「それも脅迫だぞ」
跪いたまま、ゼクスは続ける。
「王都が落ち着くまでにはまだ時間がかかる。禁海の汚染の問題も解決していない。だが。いや、だからこそ。今、ここで、お前の約束がほしい」
冬至節前夜に、はじめてこの女を抱いたときの、深い、深い満足と、どこまでも満ち足りた安らぎ。充足感。それを知らなかった頃には、もう戻れない。
「必ず、お前のもとに、戻る。だから、待っていてほしい」
ゼクスは、レイシアから目を逸らさない。
「息が、できないんだ」
お前がいなければ、もう息すらできない。
「…苦しい」
助けてくれ、とゼクスの声が熱を帯びてかすれる。
「何度でも、お前に跪く。――どうか、おれの妻に」
長い沈黙のあと。
「…はい」
ゼクスの手がレイシアの頬に伸びる――次の瞬間。
バン、となにかをたたきつけるような音がした。
「うちの商主を返していただく!!」
扉の向こうで、闇を切り裂くような軍師の怒声が響いた。
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