第42話 再会
――商主をさらって連れてくる。
王が放った言葉に、ツヴァイがぎょっと目をむく。
「人の話聞いてました!?わたしは、商主をこちらの船に招きましょう、と提案したんですよ!拉致しろなんて言っていませんよね!?」
ゼクスは舌打ちし、甲板を蹴るように歩いた。
「商主に説明して、納得させる。一晩で終わる」
「話し合いというのはですね、少しずつ慎重に、相手との信頼関係を積み上げながらですね…」
「ジンを先に下船させて、商会の場所と、商主の部屋の正確な位置を探らせろ」
「だから、そうじゃなくて…!」
ツヴァイの声は、潮風にさらわれた。
たじろぐ側近に目もくれず、王は有無を言わさず断言した。
「明日の晩だ。それまでに必要な情報を集めろ。急げよ」
◇ ◇ ◇
夜の港は、静かだった。
昼の喧騒が嘘のように、波の音だけが板壁を撫でている。
潮の匂いは濃い。だが、今夜はそれだけではない。
甘い。焦げたような。獣の腹の奥のような匂い――
沈降の夜の前兆だと、サン・バルドが言った匂いが、確かに漂っていた。
港は、眠っているのではない。
息を潜めている。
珊瑚棚を守るための罠が、海の底で牙を研いでいる。
商船はすべて、いつでも動けるよう帆を畳み、縄を張り直し、灯を落としている。
その暗がりに、影がひとつ、落ちた。
船でも、魚でもない。
人だ。
屋根から屋根へ、黒い影が滑るように渡っていく。
風の音に紛れ、板の軋みに紛れ、誰にも気づかれない速度で。
――獣人族の少年である。
「……まったく、人使いが荒いっての」
独り言は軽い。
だが、目だけは笑っていない。
彼は高台の屋敷を見上げた。
商会の執務室。
港の“心臓”がある場所。
(王が“攫う”って言った時点で、交渉じゃなくて襲撃なんだよなあ)
ジンは肩をすくめる。
(まあ……ゼクスにしては、これでもまだ理性的か。たぶん)
そして、屋敷へ向かおうとした――その瞬間。
背後の闇が、息を吐いた。
「……誰かな?」
低い声。
酒場の笑いも酔いも、欠片も混じっていない声。
ジンは止まる。
止まったまま、振り返った。
木箱の陰。
暗がりの中で、男が立っていた。
片手に短剣。
もう片方の手は、喉を掴む位置。
金色の髪の、美貌の男娼――カインだ。
「夜の散歩にしては、足音が綺麗すぎるねえ?」
次の瞬間、短剣が走った。
風を裂く音。
刃が夜を切り裂く。
だが、ジンの体は滑る。
避けたというより、最初からそこにいなかった。
刃は空を切り、代わりにジンの指先がカインの手首を押さえた。
「やるねえ」
「アンタ、同業者?」
カインの膝が跳ねる。
ジンはそれを踏み、重心を崩し、背後に回る。
カインの首筋に、冷たいものが触れた。
「動くなよ」
ジンの声は軽い。
軽いまま、刃の温度だけが冷たい。
その時。雲間から、月明かりが、差した。
ふたりの暗殺者は、一瞬、お互いを認める。
「あれ?」
カインが、面白そうに口角を上げた。
刃を構えたまま、笑う。
「どこかで身に覚えのある動きだと思ったら……王の飼い猫か」
ジンも鼻で笑う。
「イリスの館の男娼?」
次の瞬間――
ジンが先に踏み込んだ。
喉元を狙う。速い。無駄がない。
だが、カインは避けない。
避けずに――“受けた”。
刃を滑らせるように逸らし、同時に距離を潰す。
腕を絡め、肘を落とし、関節を噛ませる。
「うわっ!」
ジンの身体が、半回転する。
背中が木箱に叩きつけられ、息が詰まった。
カインの腕が、ジンの右腕に蛇のようにからまる。
細いのに、骨に届く圧で、締まる。
「…っ!」
「……で?」
耳元で、甘い声。
「何しに来たのかな?」
「ちょっ……待てって……!」
ジンが笑おうとするが、喉が笑えない。
カインはさらに締めた。
ぎり、と骨が鳴る寸前の音。
「早く言わないと折っちゃうよ?」
「やめろ!折るな!」
カインは楽しそうに言う。
「まあ君、腕の一本くらいなくても、あんまり困んなそうだよね」
「困る!! 困るって!!」
「まだまだお子さまだなあ。…でもそのまんま成人したらさすがに脅威になりそうだし…今のうちに使いものにならなくしとく?」
ジンは歯を食いしばり、視線だけを動かす。
逃げ道を探す――が、ない。
月明かりが、カインの横顔を照らす。
そして――その目が、ふっと細くなる。
「……ちょっと待って」
カインが、締める力を一瞬だけ緩めた。
ジンはその隙に、息を吸う。
「……あれ?」
ジンも気が付く。
カインが笑う。
「王の飼い猫が、ここにいるってことは」
「アンタがいるってことはさ」
一拍。
「王がいるのか?」
「影妃がいるのか!?」
ほとんど同時に、ふたりは言う。
「…ふうん?王がレイシア様を取り戻しにきた?」
「表向きは別要件だけどさ…とりあえず商主ってやつと王鯨のことで話つけて、早く影妃捜しに出たいってのが本音だろ」
カインはジンの右腕を解放し、短剣を鞘に戻した。
「なるほどね」
そして、唇の端だけで笑う。
「で、きみは何しにきたわけ」
「いやまあ…ゼクスが商主と話し合いするっていうからさ」
「話し合い?」
「拉致監禁?」
「なんだって?」
カインの細い指が、音もなくジンの喉元に触れる。
「だから違うって…偵察だよ。商主の部屋を探してる」
「へえ?」
カインの指に、微妙な圧がかかる。
「アンタ、優しそうな顔して、こわ…。一晩、商主を借りるだけだって」
「レイシア様だよ」
「…え?」
「レイシア様が、この港の商主だ」
「…ゼクスの船を沈めかけた…?」
「うん、それも、レイシア様の采配だね。布陣を考えたのは、軍師殿だけど」
にっこりと、カインは笑って、ジンの喉元から指を引いた。
「じゃあ今夜、商主が何者かに連れ去られても――」
「見て見ぬふりしてくれると助かる」
カインの声が、ほんの少しだけ低く落ちる。
「商主が無事に戻る保障は?」
「当然、ある」
ジンは即答した。
「……言い切れる?」
「ゼクスが、レイシアを傷つけるわけない」
「丸二年会えなかった女、閉じ込めてぐちゃぐちゃに抱き潰すとかない?」
「それは――」
あるかも。いや。
「それは当然そうしたいだろ。けど、所詮、レイシアに完敗してるヤツだから、たぶん大丈夫」
だと思う。
あいまいな語彙は、あえて口に出さない。
「ほんとに?」
「影妃が嫌がることはしないって」
――嫌がらなかったら、それはおれの知ったことじゃないからな。
言外に告げる。
「…僕が目をつぶるのは、一晩だけだよ」
カインは釘をさす。
「軍師殿だって黙ってない。母親が攫われてリリィの泣き顔見たら、知謀の限りを尽くして総攻撃をかけかねないよ、彼」
彼、というのが、オルフェンのことを言っているのだと、察しがつく。
「ゼクスが来たって教えてやれよ」
「それじゃつまんないでしょ」
「…性格悪い…」
「血相変えて激怒するはず。親愛なる王の女が、どこの骨とも分からない海賊にさらわれたって。怒ってる彼、ちょっと色っぽいよね…楽しみ」
「…ああ?」
「好みなんだよねえ」
「…念のため、言っとくけどさ。オルフェンにそういう嗜好は全然ないと思うぞ」
「大丈夫大丈夫」
なにが?とジンは聞きたくなるが、あえてやめておく。
◇ ◇ ◇
執務室には灯がひとつだけ。
机上の帳面。
積まれた海図。
塩と油と、酒の匂い。
窓辺に立つ商主は、髪を高く結い、男物の上衣の上に簡易な鎧を纏っていた。
肩は細い。
だが背筋がまっすぐで、立ち姿が鋭い。
海を見ている。
海賊たちが、香石を狙って集まってくる。
沈降の前兆が来ている。
その背後に、音もなく影が落ちた。
レイシアは振り向かない。
振り向く必要がない。
この港で、音を消して歩ける男は、限られている。
カインかオルフェン――しかし、この気配はどちらも違う。
(……誰)
次の瞬間。
腕が伸びた。
口を塞がれる。
ばさり、と大きな布が頭からかぶせられ、視界が闇に落ちる。
身体が引かれる。
窓辺から、闇へ。
「――っ!」
抵抗するより早く、視界が反転する。
床が遠のく。
夜風が刺す。
屋敷の外へ。
屋根へ。
そして――落下。
正確には、落下ではない。
大きな布に巻かれ、担がれ、抱えられたまま、何者かに運ばれている。
レイシアは息を呑む。
その腕の強さ。
体温。
力の配分。
この男は、戦闘慣れしている。
「…離…!」
声を上げようとした。
だが、風と夜に吸われて、音にならない。
男は答えない。
答えずに、走る。
屋根を渡り、路地を抜け、港の暗がりへ。
(……速い)
港の罠を避けるように。
見張りの目を避けるように。
迷いなく。
そして――船へ。
黒い船。
海賊船の皮を被った、異様に整った船。
甲板に足が触れた瞬間、レイシアは身をよじった。
布が舞い、肘で相手の顎を狙う。
だが、その肘はまた止まる。
片手で。
「……おい」
低い声が落ちた。
灯のない甲板。
夜風が吹く。
互いの顔は見えない。
だが、殺気だけは見える。
「抵抗するな」
「拉致しておいて、なにを……!」
その声を聞いた瞬間。
相手の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
――止まった理由が、レイシアには分からない。
ふいに、男の手が伸びる。
「触るな!」
ゼクスは、抵抗しようとした商主の手首を捉える。布を剥ぐ。
船室の灯が揺れ、闇が割れる。
視界が戻った瞬間、レイシアは相手の顔を見た。
赤い髪。
深紅の瞳。
何度も、何度も、何度も、夢に見た。
レイシアの目が、見開かれる。
ゼクスの呼吸が、止まった。
怒りの光を帯びていた深紅の瞳が、ゆっくりと変わる。
困惑。
確信。
そして――渇き。
「……レイシア」
声が掠れた。
ゼクスの指が、レイシアの頬に触れる。
確かめるように。
「みつけた」
絞り出すようにつぶやいた言葉が、深い闇の底に落ちた。
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