第41話 商主の影
潮が、引きすぎていた。
夜明け前の海は、黒く沈んでいる。
波はあるのに、音がない。
息を潜めた獣の腹のように、ただ重い。
港の外れに停泊する商船の甲板で、レイシアは舳先に立っていた。
男装の外套。髪は高く結い、風に煽られても崩れないよう固くまとめている。
指には薄い革手袋。腰には短剣――飾りではない。
「……来るわね」
呟きは小さい。
だが、周囲の男たちの背筋が伸びた。
この船の船長は別にいる。
けれど今、甲板の空気を支配しているのは、間違いなく女商主レイシアだった。
「距離、四百!」
見張りの声が飛ぶ。
レイシアは頷くだけで、海を見続ける。
潮の筋。波の癖。暗い水面のわずかな盛り上がり。
目で読むのではない。身体で測る。
「第一線、まだ動かさない」
声は低い。短い。
「入ってくるまで待つ。――焦った船から沈む」
「はい!」
船乗りたちが即座に応じる。
命令ではなく、合図のように。
港の守りは、港の男たちだけではない。
商船も、漁船も、荷運びの小舟も――今夜は全部、ひとつの艦隊だ。
沖合に、影が現れた。
一隻。
二隻。
三隻。
黒い帆。継ぎ接ぎの船体。
火の痕。奪った木材の匂い。
――海賊。
「灯を落として」
レイシアが言う。
甲板の灯りが、すっと消える。
海が、さらに暗くなる。
海賊船の一隻が、港の外側へ舵を切った。
珊瑚棚を避けるように見える“空いた航路”。
わざと残した道だ。
「……入った」
レイシアの声が落ちた瞬間。
海賊船の動きが鈍った。
ぐ、と船体が沈む。
止まったのではない。絡んだのだ。
海面下に沈めた網が、舵を奪い、船底を抱え込む。
逃げようとするほど、絡みは深くなる。
海賊の怒号が夜を裂く。
「切れ!切れぇ!!」
刃が振るわれる音。
縄が裂ける音。
だが、網は切れない。
レイシアは、淡々と指示を続ける。
「横潮に乗せる。――二番船、帆を畳む。…押して!」
港側の商船が、ゆっくり動く。
海賊船の横腹へ、潮の力を押しつけるように。
波は静かなまま。
だが、船だけが横へ滑る。
そして。
海賊船が流された先で、海面下の柵が待っていた。
ぎぎ、と嫌な音。
船腹が裂ける音。
海賊船が傾く。
甲板の男たちが悲鳴を上げ、海へ転げ落ちる。
「沈む……!」
周囲の船乗りが息を呑む。
レイシアは冷たく言った。
「追わなくていい。逃げ道は残しなさい」
「……商主?」
「恐怖は噂になる。噂は盾になる」
船乗りたちの顔が引き締まる。
この女は、勝つだけじゃない。勝ち方さえ選ぶ力量がある。
そのとき。
沖合のさらに奥から、もう一つの影が現れた。
一隻。
他の海賊船とは、明らかに違う。
帆の張りが美しい。
舵の切り方が滑らかで、無駄がない。
「……あの船」
ミラが、別の船の甲板から声を上げた。
「罠を避けてる!」
レイシアの喉の奥が、ひゅっと締まる。
その船は、わざと残した航路に乗らない。
珊瑚棚の外縁を掠め、禁海へ向かっていく。
禁海。
沈降。
香石。
全部がそこに集まる海域を侵す船は――敵とみなす。
「撃て!」
レイシアの声は、迷いがない。
矢が放たれる。
投石が唸る。
海面に火花が散る。
それでも、その
船は止まらない。
避ける。
かわす。
帆を畳み、速度を殺し、すれ違うように抜ける。
「……動きが、巧すぎる」
レイシアが、ほんの少しだけ唇を噛む。
「商主!あの船、略奪してません!」
見張りが叫ぶ。
「むしろ、海賊船を沈めています!」
――確かに。
異質な船は、横から滑り込み、海賊船の腹を叩き割った。
ためらいがない。
躊躇がない。
だが。
レイシアは冷たく断言した。
あの船に、どんな意図があるにせよ。
「禁海に近づくなら、沈めるまで!」
総攻撃が始まった。
罠で沈めるのではない。
火力で沈める。
レイシアの指示は速い。
「二番船、左へ」
「三番船、帆を!」
「――舵を殺す!」
港の船が動く。
海が動く。
異質な船が、ついに傾いた。
船腹に矢が刺さり、帆柱が軋む。
火が上がりかける。
「沈むぞ!」
瞬間。
その船は、信じられない角度で舵を切った。
まるで海面に落ちる影を踏むように、罠の境界を抜ける。
そして、ぎりぎりで包囲から抜けた。
完璧な撤退。
レイシアは甲板の縁を握りしめた。
――逃がした。
まさか、この包囲網を破る船があるなんて。
オルフェンが考え、レイシアが練り、海をよく知るサン・バルド頭領が動かしている船団だ。悪行を働く海賊船をくまなく絡め取るための、完璧な布陣のはずだった。
――いったい、どんな人物が、あの船を操っているの?
「……次は、必ず沈めるわ」
◇ ◇ ◇
海の上。
夜の闇に紛れた船の甲板。
王は、怒り心頭である。
「……ふざけるな!!」
低い声が、波より重い。
海風が、黒い外套を煽る。
血のような深紅の眼光を持つ切れ長の目が、港の灯を睨みつける。
「罠も、火力も、配置も――全部が異常だ」
王は吐き捨てた。
海賊船を駆逐し、王鯨の痕跡を拾い、沈降の兆しを追い――
ようやく、この近辺だと嗅ぎ当てた矢先に。
“港の守り”が、全力で自分を沈めに来た。
「こっちは海賊船を駆逐してやってる側だってのに」
ゼクスは、苛立ちを噛み殺すように呟いた。
王都を出港して、一年半。
禁海周辺まで、楽に辿り着けたわけではない。
船は海を走っていても、王の仕事は追ってくる。
寄港するたびに届く封書。
――裁可。徴税。港湾の争い。元老院の小競り合い。
――誰を切り捨て、誰を生かすかの選別。
クリシュナに王位を押しつけ、ノアに政務を押しつけたつもりだった。
(嫌がらせか……)
「王が不在のままでは決裁できません」
無表情でそう書き添えられた書類が、寄港地に下船するたび執拗に届けられる。
甲板で血を流し、船底で傷を縫い、夜には灯の下で署名を重ねる。
いくら驚異的な回復力を持つ鮫人族の血を引くといっても、混血のゼクスは完全な鮫人の体質ではない。疲労も溜まれば、度重なる海上の戦闘で体力も削がれる。
それでも――進んだ。
王鯨の痕跡を拾い、潮の乱れを読み、深海の匂いを追い、ようやくこの近海で“沈降の夜”が来ると当たりをつけた。
だからこそ。
この港の防衛は、ただの邪魔ではない。
――ようやく見つけた獲物を横取りされる感覚に近かった。
「…どこのどいつだ、俺の船を沈めようとしたのは!」
怒りが、胸の底で煮え立つ。
ゼクスは舌打ちし、黒い海を睨んだ。
その背後で、ツヴァイが淡々と告げた。
「海賊達が売ったケンカを、港の商主が片っ端から買っているという噂です」
「おれは売ってないだろうが!」
「先方には、禁海に近づく船はみんな同じに見えるんでしょう。なんとも見事な采配でしたね。おそらく、守っているのです…港を、海を」
「守ってる?あれは完全に攻撃だ」
「港の中心にいるのは、どうやら、港の商主のようです。あの罠も、指揮も、すべて商主の意志で動いている」
ツヴァイは冷静だった。
「このままでは埒があきません。商主と話し合う必要があります」
王は舌打ちした。
「話し合いだと?」
「はい。こちらが剣を抜く前に、まず“条件”を突きつけるべきです。商主が望むものと、こちらが渡せるもの。その線引きを明確にする」
「あんな手段を選ぶ商主が、まともな話を聞くと思うのか」
「ですから、話し合いをするなら、こちらの船に招きましょう。港の罠の中で交渉するのは不利です」
「……めんどくせえな」
ガラがわるいですよ、とツヴァイは釘を刺す。
「沈め合う気ですか?」
「こっちが沈めてやる」
「…沈められかけたくせに」
「うるさい!」
ゼクスのこめかみに、血管が浮いた。
言い返せないのが腹立たしい。
ツヴァイは、追撃する。
「それに、避難勧告も必要です」
「避難?」
「王鯨沈降の夜には海が荒れます。大津波の可能性が高いと、ノア様の手紙にありました」
ゼクスは舌打ちした。
ツヴァイの声は揺れない。
「商団の長というものは、基本的には合理と損得で動きます。――勝ち目がないと分かれば、引き際も選びます。話は通じるはずです」
――港。
ゼクスは忌々しげに息をつく。
まさか、王都からはるか遠く離れた禁海の縁に位置する港が、これほど栄えているとは思っていなかった。
地図にさえ記されていない土地だ。
それなのに。
港の空気は、潮と油と、干した魚の匂いが混じっていた。
死んだ海に漂う腐臭ではない。
生きた海の、むせ返るような湿り気だ。
岸壁には、粗末な網が何重にも干され、木箱が積まれ、誰かの怒鳴り声と笑い声が飛び交っている。
裸足の子どもが桶を蹴り、跳ねた水が石畳を濡らした。
それを叱る声さえ、妙に現実味があった。
魚がいる。
小舟が出ている。
帰ってきた船から、銀の鱗が陽に弾ける。
(……禁海だぞ)
王都の地図にすら記されない場所。
禁忌の海域の縁。
いずれ滅びると切り捨てられた土地。
そこに、生活がある。
人が、息をしている。
驚くべきは、死に絶えたはずの珊瑚の再生である。
岩礁の浅瀬に、淡い光が散っていた。
血のように赤い枝。
乳白の房。
かつては黒ずみ、砕け、ただの死骸になっていたはずの珊瑚が――
今は、波の揺れに合わせて、柔らかく揺れている。
まるで海そのものが、いちど死んで、別の生き物として生まれ直したかのように。
ともかく、住民が暮らしている痕跡がある以上――王として、見捨てる選択肢はない。
結局は、ノアの言う「王の仕事」とやらに、付き合わされる羽目になった。
「あの男、面倒くさいことばかり俺に押しつけやがって」
「王鯨の情報を得るのに、どれほどの古書を漁られたか……。ノア様の働きには頭が下がります」
ツヴァイは、わざと軽い口調で続ける。
「あなたには、ちょっと忙しいくらいがちょうどいいですよ」
「ちょっと?」
「……まあ、かなり?」
逃げた女――正確には、<逃がした女>のことで不機嫌になられるよりは、よほど建設的だ、とツヴァイは思っている。影妃と離れてもう二年以上経つというのに、忘れるどころか日増しに憤懣と苛立ちが増していく王の様子を間近に見ているツヴァイは、ふうとため息をついた。何も考えられなくなるくらいに満身創痍で疲労困憊しなければ、王は夜も熟睡できていないかもしれない、と見ている。厄介な恋煩いである。
「影妃のことを考えられないくらい忙しいほうが、気が紛れるでしょう。…あなたが不機嫌だと、船が沈みます」
「沈まねえよ」
「沈みかけました」
「……」
また言い返せない。
王は、煩わしそうに、伸びた赤髪をかきあげた。
遠目に見えた、港の商主とやらの男の姿を思い出す。
思い出すだけで、はらわたが煮えくりかえる。
港側の商船の甲板。
舳先に立つ、細身の男の影。
風を裂くような気概の指示で、縦横無尽に船を動かしていた。
迷いがない。
決断が速い。
そして、容赦がない。
ゼクスの目が、細くなる。
(……あんな人材が、こんな辺境に?)
この自分の船を沈めかけた――港の商主。
怒りの奥に、別の熱が混じる。
見つけたい。
叩き潰したい。
確かめたい。
一方で、心の片隅がわざつく。
港の灯。
あの布陣。
あの指示の速さ。
どこかで知っている。
どこかで、胸の奥が疼く。
――いや。
そんなはずはない。
別れてから、二年だ。
海に出て。
探して。
耐えて。
――ここへ来たのは、偶然ではない。
たった一通だけ。
奇跡のように届いた、オルフェンからの手紙があった。
そこには短く、こう記されていた。
――禁海周辺の港に身を寄せた。商団を動かし始めている
禁海は広い。
港は点在し、潮と霧に紛れれば、人ひとり消えるのは容易い。
ゼクスは寄港するたびに聞き込みをした。
名も知らぬ酒場で、漁師の噂を拾い、商人の帳簿を覗き、商団という商団の名を洗い出した。
――それでも、レイシアは見つからない。
王は、低く笑った。
「……よし」
ゼクスは短く言った。
王鯨の沈降は近い。
住民を避難させなければならない。
こんなところで手間取ってはいられない。
ともかくてっとりばやく港の長と話をつけて、レイシアの行方を探りたい。
「商主をさらって連れてくる」
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