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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第40話 香石

カインの酒場の喧騒が、一段落した頃だった。

杯の底に残る潮香酒の香りが、木の隙間に染み込んでいく。


商船の頭領サン・バルドは、火のそばの席で、ひとり黙っていた。

笑いも、酔いも、彼のところだけ届かない。


レイシアが声をかける。

「船長。王鯨の話って……」

老人は杯を持ち上げ、愛おしむよう潮香酒をあおった。

そして、指で卓を二度、軽く叩いた。

「沈降の夜はな」

低い声が、酒場のざわめきを一つ、削った。

「前兆がある」


誰かが息を呑んだ。

カインが、ふざけた調子を崩さずに言う。

「前兆って、嵐とか?月が赤くなるとか?」

船長は首を振った。

「嵐じゃない。月でもない」

「……海が、変わる」

レイシアは黙って続きを待つ。

「潮が、引く。引きすぎる」

「浜が、広くなる。底が見えるほどな」

「それなのに――波は騒がない」

老人はそこで、目を細めた。

まるで、遠い夜を見ている。

「静かすぎる海は、いちばん怖い」

酒場の空気が、冷えた。

バルドは続ける。


「魚が消える」

「鳥も鳴かない」

「潮の匂いが、薄くなる」


「……潮の匂いが?」

ミラが思わず聞き返す。

船長は頷いた。

「正確には、匂いが、変わる。甘い…焦げたような、獣の腹の奥みたいな匂いだ」

その言い方が、妙に生々しい。

「それが来たら、船を出すな」

レイシアの指が、杯の縁をなぞった。

「……沈降は、禁海で起きるのよね」

「そうだ」

船長は、短く言った。

「王鯨は浅瀬には来ない」

「だが――沈降の夜だけは、海の境目が溶ける」

「境目?」

レイシアの横で話を聞いていたオルフェンが、眉を寄せる。


「深い海と浅い海の、線が消える」

「だから、浅瀬の珊瑚も震える」

「港の罠も、潮の流れも、狂う」


船長は、ふたたび杯を持ち上げた。

潮香酒をひと口、含む。


「……そして、王鯨が香石を吐き出す」


レイシアの瞳が、わずかに鋭くなる。

「香石?」

その二文字が落ちた瞬間、酒場の奥の席で、誰かの笑い声が止まった。

離れて座っていた漁師たちが、聞き耳を立てる。


「王鯨の腹の奥で育った、石みたいな塊だ。沈降の夜に、海が吐き出す」

船長の声が低くなる。

「値千金の宝物だ。――沈降の兆しを嗅ぎつけて、海賊たちが、こぞって奪いに来る」

船長は、レイシアを見た。

「香石は、海を再生させる鍵になる」

レイシアは静かに言った。

「深海が再生する……」

「そうだ」

老人は頷く。

「沈むことで、海は次の百年を選ぶ」

カインが、冗談めかして笑おうとした。

「じゃあ、めでたい話――」

だが言葉が続かない。

老人の目が、冗談を許さない目だった。

「沈む前の海は、荒れる。浅瀬を巻き込む。珊瑚も、魚も、船も――全部持っていかれる」

レイシアの脳内で、盤面が並び替わる。

珊瑚棚。

再生の核。

酵母。

酒。

港の未来。

そして――守るべき命。


「……オルフェン」

レイシアは呟いた。

「はい」

軍師が顔を上げる。

その目が、戦場の軍師のそれになる。

「守備の準備を」

オルフェンは頷いた。

カインが口笛を吹く。

「いいですねえ、戦争だ」

「戦争じゃないわ」

レイシアは言う。

「守るだけよ」

商主の威厳と面持ちで、レイシアは低く続ける。

「珊瑚の周囲に、複雑な罠を張る。侵入者を防ぐ。海賊船も寄せつけない」

オルフェンが、卓の上に、海図を開く。

「禁海は“壁”で守れません。海は抜け道だらけです」

カインが肩をすくめる。

「じゃあどう守るわけ?」

「道を作ります」

「……道?」

「海賊が“入りたくなる航路”を、わざと残す」

「そして、その道だけを――殺す」

ミラが息を呑む。

「殺す……?」

オルフェンは淡々とった。

「潮の筋に、沈め網を張る。舵と船底に絡ませて、速度を落とす」

「止まったら?」

「横潮で流されます」

「流された先に、沈め柵を置く。すると、船腹が裂ける」

カインが顔をしかめる。

「えげつないなあ」

「港を守るためです」

レイシアが静かに言う。

「珊瑚棚の周りは?」

「二重に。外側で“誘導”、内側で“破壊”。入った船は、沈む」

カインが肩をすくめる。

「難しいなあ。僕はもうちゃっちゃっと海賊たちを死体にしちゃうほうが早いと思うけど?」

「やめろ」

「冗談だって」

「本気で言ってるだろう」

「ちがうって」

言い合いの中で、港の男たちが笑う。

守るために戦う。

それが港の新しい誇りになっていく。


レイシアは、いつのまにか自分の腕に抱かれて動かなくなったリリィを見る。

小さな命は眠っている。

無防備に。

世界を信じて。


――信じさせてみせる。

レイシアは心の中で誓う。

海が荒れようと、王鯨が沈もうと。

神殿が嗅ぎつけようと。

王都が動こうと。

この港の未来は、ここにある。

この子の未来も。


杯が鳴り、火が揺れ、酒が回る。



◇ ◇ ◇



同じ夜。

カインの酒場の裏手――表の灯りが届かない場所で、

男たちが小声で笑っていた。


「聞いたか?」

「何を?」

「沈降が近いってよ」

「……王鯨か」

その言葉に、別の男が舌打ちする。

「ふん。迷信だろ」

「迷信で済むなら、こんなに船は集まらねえよ」

「香石だ」

男が囁いた瞬間、周囲の空気が一段、熱を帯びた。


「――香石こうせき


誰かが、喉を鳴らす。

「王鯨の腹から出る石だろ?」

「海の宝だ。香りが残る。服に染みる。肌に残る」

「媚薬になるって話もある。男も女も、骨までとろける」

下卑た笑いが、闇に溶ける。

「最高級の香料だ」

「……一欠片で、金貨百枚」

「いや、王都じゃ千だ」

「貴族が狂って買う。香を焚いて、夜を買う」


「港の商主が、珊瑚を育ててるって話もあるぞ」

「珊瑚の酒?笑わせんな」

「昔あったろ、潮香酒さ。港町の美酒。かなりの高値で取引されるはず」

「でもな、あの港……罠が増えた」

「守ってるんだろ」

「何を?」

男が笑う。

「香石だよ」

「拾うだけなら簡単だ」

「沈降の夜、王鯨が吐き出す折をみて、拾って逃げればいい」

「……逃げられるか?」


一瞬、沈黙が落ちる。


その沈黙を破ったのは、傷だらけの男の声だった。

「逃げられるさ」

「――王が来なけりゃな」

「……王?」

「庶出の王だよ。海の血を持つ化け物」

「深海を嗅ぐ鼻を持ってるって噂だ」

「禁海を侵す海賊船を片っ端から駆逐してるって話さ」

「そんなの、ただの噂だろ」

男たちは笑った。

「香石は、金になる」

ひとつずつ、言葉が積まれていく。

まるで呪文だ。

男たちの目が、ぎらつく。

「金だ」

「力だ」

「女だ」

そして、ひとりが笑った。

「港の商主が香石を守るなら――奪えばいい」

「奪えるのか?」

「奪うんだよ」

闇の中で、杯がぶつかる。

「沈降の夜に、港ごと燃やしてやる」

その言葉が、海に落ちた。


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