第39話 潮香酒
潮が香る。
だが――二年前と同じではない。
かつて廃港と呼ばれた岸壁には、いま、音がある。
木箱を運ぶ足音。
帆布を叩く風の音。
船腹が水を切る鈍い響き。
そして、どこからともなく混じる笑い声。
海はまだ完全には戻っていない。
珊瑚の色は浅いところほど脆く、白くなりかけた箇所も残っている。
それでも、人が戻れば、港は呼吸を始める。
帳面を片手に、レイシアは桟橋を歩いた。
外套の裾が風に煽られ、黒髪が一筋揺れる。
歩幅は小さいのに、迷いがない。
迷っている暇がない、というのが正しい。
「第三倉庫の塩、今朝の分は?」
「はい、商主。積み替え完了しています」
返事は即座に返る。
“商主”と呼ばれることにも、誰ももう違和感を覚えない。
名実ともに、彼女はこの港の中心になっていた。
「魚油の樽、昨日の便で漏れがあったわね」
「すみません、締めが甘く――」
「謝罪はいらない。次から、縄を二重に」
「……はい!」
レイシアは帳面に短く印をつけ、次の荷へ視線を移す。
船が出る。
物が動く。
金が回る。
それが港の血流だ。
その背後で、カインがあくび混じりに口を挟んだ。
「相変わらず容赦ないなあ、商主」
「容赦してほしいなら、荷を壊さないで」
「はいはい。怖い怖い」
口では軽口を叩きながら、彼は人を動かすのが上手かった。
誰に命じられたわけでもないのに、港の若い衆が自然と動く。
笑いながら、手を動かす。
それがこの港の“今”の強さだった。
「……お待ちください!走らないで…」
オルフェンの声だ。
「転んでしまいますよ!!」
ミラが、小さな少女の後を追う。
「ん!」
短い返事とともに、少女は桟橋の板を小さな靴で叩いた。
おぼつかない足取り。
なのに本人だけは“完璧に走っているつもり”の速度で進む。
ふわり、と髪が跳ねる。
淡い光を含んだ、ピンクゴールド。
海風を受けるたび、金にも緋色にも見える不思議な色だった。
ゼクスの母親と同じ髪の色だと言ったのは、ノアだ。
隔世遺伝で孫娘に現れたのだろうと。
そして振り返った瞳は、レイシアと同じ琥珀だ。
甘く澄んでいて、光を映すと蜂蜜のように揺れる。
少女の名前は、リリィ・ココという。
2歳になったばかりだ。
「ま、まって!」
ミラが慌てて追いかける。
裾を踏みそうになりながらも、手を伸ばす。
「お嬢様、危ない!」
「だいじょぶ!」
しゃべりはじめたばかりの二語文で、少女は言い切る。
勢いだけは立派だった。
オルフェンは舌打ちをひとつ、無駄のない動きで前に出る。
走るのではなく、詰める。
逃げ道を読む。
次の角を塞ぐ。
戦場の追跡そのものだ。
「……港は戦場と同じです。走ってはいけません」
軍師はひょいと少女を抱きかかえた。
手慣れた仕草だ。
「さすがですね、オルフェン様」
ミラが賞賛する。
――当然だ。
オルフェンは苦虫をかみつぶしたような表情で思う。
商主となった影妃の日常は多忙を極めている。
そのかわり教育係と称して、一日のほとんどの時間、この少女の相手をさせられているのは、軍師オルフェンである。
珊瑚再生の研究とてヒマではない――と言いたいが、あの父にして、あの母にして、この娘ありというか…なんとも、手のかかる幼児なのである。
それに。
ゼクスとレイシアの娘であるリリィ・ココは、なんといっても正当な第1王位継承者である。ゼクスの王位が今後どうなるかは分からない――おそらく本音としてはさっさとクリシュナあたりに売り飛ばしてしまいたはず――が、ともかくも、然るべき環境で、然るべき教育を受けさせるべき…とレイシアに声高に主張してしまったのが、そもそも間違いだった。じゃああなたお願いね、とさらりと影妃は言ったのだった。
「しっかり見張れ」
わたわたと手足をばたつかせる少女を、ミラに渡す。
「やだー!オルのばかばかばかばかおたんこなす頭でっかちまぬけぼけなす…」
「どこでそんな言葉を覚えたんですか」
じろり、とオルフェンはカインを睨む。
「僕じゃないですよ?だいたい軍師殿はリリィに対して過保護すぎでしょう。無菌娘みたいになったらどうするんですか」
「無菌娘で何が悪い」
「世の中はバイキンだらけですって。そもそも港町というのは荒くれた人間が多いんだから、それなりに免疫あったほうがたくましく生きていけるものですよ」
「カインだいすきー」
きゃっきゃっとリリィが笑う。
「お嬢様をカインの毒牙にはかけさせません!」
ミラはオルフェンの味方である。
「人聞きが悪いなあ…」
レイシアが帳面から顔を上げる。
その瞬間、リリィの表情が変わった。
「かあさま!」
ミラの腕の中から飛び出す。
小さな身体が、よろけながら方向転換する。
それは走りではなく、ほとんど突撃だった。
「……っ」
レイシアは息を呑むより早く膝をつき、腕を広げる。
リリィが胸に飛び込んできて、外套の紐をぎゅっと掴む。
「かあさま、みて! ふね!」
港に停泊している商船を指さして、リリィは言う。
「見てるわ。たくさん船があるわね」
レイシアが頭を撫でると、リリィは満足そうに頷いた。
そして次の瞬間にはもう、別のものに目を奪われる。
「さかな!」
「危ない!」
桟橋から身を乗り出したリリィをかばうように、オルフェンが手を伸ばすが、リリィはするりとその手を抜ける。
「待ちなさい、リリィ・ココ!」
あっかんべー、とリリィは顔をしかめる。
レイシアが笑いを堪えながら、ミラに話しかける。
「オルフェンは、本当にリリィのお世話が上手ね」
カインがぼそりとつぶやく。
「完全に小姑ですよ、あれは」
レイシアは小さく笑う。
この二年、笑うことが増えた。
けれど同時に、油断は一度もしていない。
守るものが増えるというのは、そういうことだ。
「商主!」
呼び声に、レイシアは顔を上げた。
若い漁師が駆け寄ってくる。
手には、小さな瓶が握られていた。
「珊瑚棚の採取品です。……例の、香りがする」
レイシアの目が、わずかに光を帯びる。
「持ってきて」
瓶の蓋が開けられた瞬間、潮と違う匂いが立った。
甘いのに鋭い。
花のようで、海のようで――どこか生き物の匂い。
カインが顔をしかめる。
「……これは」
「酵母よ」
レイシアが即答した。
「珊瑚から?」
カインが目を丸くする。
「すごい!増やせますか?」
ミラも興奮したように瓶の中の白い粉を見つめた。
◇ ◇ ◇
浅瀬の珊瑚棚。
二年前は白く崩れかけていた場所に、いまは淡い色が戻り始めている。
そこまで来るのに、オルフェンの執念があった。
彼は珊瑚の欠片を集め、潮の流れ、日照、藻の繁り、澱みの位置を海図に重ねた。
然るべき条件を備えた場所を選び、そこを“珊瑚の養場”として区画した。
「全部を救うのは無理です。守る場所を決めましょう」
オルフェンはそう言って、珊瑚の周囲に藻の帯を育てさせた。
水を浄化し、潮を柔らかくし、毒化した水脈の滲みを少しでも薄めるためだ。
そして、珊瑚が根を張れるように、足場となる板や石を沈めた。
珊瑚を増やすのではない。
まず、定着できる場所を作る。
――海に、土台を置く。
それが再生の第一歩だった。
そして、珊瑚再生の研究のなかで、思わぬ発見があった。
きっかけは、ある夜の異変だった。
珊瑚棚の見回りをしていた漁師が、言ったのだ。
「……甘い匂いがします」
腐敗ではない。潮でもない。
花のように甘く、どこか熱を帯びた匂い。
オルフェンは現場で、珊瑚の“道”の脇に、小さな泡立ちを見つけた。
潮水の中で、泡が消えない。
「……発酵している」
採取して持ち帰り、瓶に詰めて確かめる。
温度を整えると、泡はさらに増えた。
香りが濃くなった。
オルフェンが低く言う。
「酒ができます」
レイシアは頷いた。
「昔、この地方には潮香酒という名前のお酒があったと聞いたわ。この土地の特産品が蘇るわ」
最初はごくわずかにか採取できなかった酵母粉は、ようやく安定した供給が実現しそうな段階に来た。
カインの酒場――仮設だった板張りの店は、いまでは港の顔になっている。
潮風の入り込む隙間だらけの建物。
だがその隙間から、匂いと声が溢れていく。
人が集まる場所がある。
それだけで、港は国になる。
「さあ!本日の主役はこれだ!」
カインが高々と掲げたのは、小さな瓶だった。
中の酒は淡く透き通り、灯を受けて波のように揺れる。
「潮香酒――新仕込み!」
「おお!」
「できたのか!」
「飲めるのか!」
ざわめきが弾む。
レイシアは、酒場の隅でリリィを抱いたまま、その光景を見ていた。
娘の髪は柔らかく、頬は温かい。
小さな呼吸が、指先に伝わる。
「……名前は?」
誰かが問う。
カインがにやりと笑う。
「決まってる。これは、リリィが生まれた年にはじめて見つかった酵母から作ったから」
彼は瓶を掲げた。
「――『リリィ・ココ』」
一瞬の静寂。
次の瞬間、笑いと歓声が爆ぜた。
「商主の娘の名前か!」
「縁起がいい!」
「港の酒だ!」
杯が回る。
笑い声が回る。
港が、回る。
そのとき。
酒場の戸が、きい、と鳴った。
入ってきたのは、背の高い老人だった。
潮と煙草と、古い木材の匂いを纏っている。
髪は白く、皮膚は日に焼け、目だけが妙に澄んでいる。
港の男たちが、さっと道を開けた。
「サン・バルド船長だ」
誰かが囁いた。
六十を越えた商船団の頭領。
かつてこの海域を生き抜いた男。
海の呼吸を読む者。
レイシアは立ち上がり、軽く頭を下げた。
「船長。来てくれたのね」
「来るさ」
老人は短く言い、酒の匂いを吸った。
「……潮香酒か」
「ええ。『リリィ・ココ』という名前よ」
「ほう」
サン・バルドは杯を受け取り、ひと口含む。
目を閉じる。
しばらくして、低く息を吐いた。
「……海が、笑ってる味だ」
その言葉に、酒場が少しだけ静かになった。
港の者たちは、老人の言葉を信じる。
海を知る者の言葉は、祈りより重い。
老人は満足げに酒を飲み干し、それから杯を置いて、レイシアに向き直った。
「商主よ」
おもむろに言う。
「今日は、王鯨の話をしにきた」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
もし少しでも続きを気にしていただたなら、
ブックマークしていただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




