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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第38話 王の船出

「……は?」


その一声は、驚きではなかった。

薄い笑みを貼りつけたまま、獲物を見つけた女の“間”だった。


クリシュナは、いまだに〈最も国母に近い女〉と囁かれている。

母親は先王の妹であり、その嫁ぎ先は政の中枢にいた高位貴族だった。

母親はクリシュナを生んですぐに早逝し、父親も不慮の事故で失った。

背中に王統の花紋を持って生まれたクリシュナは神殿に引き取られ、国で最も高貴な皇女として育てられた。

王都の民の目には、クリシュナの正妃擁立が秒読みだろうと見えている。


――が。


実際の当のふたりの関係は、おそろしく殺伐としている。


普段の皇女は、完璧な令嬢である。

細い肩。白磁のような肌。

睫毛の影さえ計算された微笑み。

誰もが守りたくなる“儚さ”を、彼女は武器として纏っている。


自分より年上のはずの皇女。あいかわらず年齢不詳の不気味な女だ――、とゼクスは思う。


無論、可憐な美少女の顔は、外向きの仮面にすぎない。

この部屋にいるのは、ゼクスとノアだけだ。

媚びる必要も、同情を買う必要もない。


豪奢な螺鈿細工の椅子に深く腰を沈めたクリシュナは、足を組んだまま、指先で杯の縁をなぞった。

カツ、と爪が鳴る。

その小さな音が、謁見室の空気を裂いた。


ゆっくりと眉が吊り上がる。

微笑みは消えない。

消えないまま――温度だけが落ちる。


「……ゼクス」


名を呼ぶ声は甘い。

しかし、敬称はない。

名を呼び捨てにするのは、情ではなく、あくまで自分の優位を確認するためだ。


「今、なんて?」


「王鯨を探すために海に出る」


間があった。

そして、クリシュナは、ふ、と息を漏らして、笑い声を立てた。

鈴の音のように軽い。

だからこそ、残酷だった。


「あなた……馬鹿なの?」


言い方が、優しすぎるほど丁寧だった。

まるで子どもを諭すように。

まるで虫を潰す前に観察するように。


クリシュナは椅子の肘掛けに頬杖をつき、華奢な指で唇を押さえる。

その仕草は可憐なのに、視線は冷たい。


「王位を空けるって言ってるのよね?」

「お前に譲位してやる」

「要らないわよ」

まだ。

と、クリシュナは声にならない声でつぶやく。


王位は椅子ではない。

狙われる位置だ。

直系の皇女が即位すれば、神殿は必ず動く。

祝福、誓約、祭祀――名目はいくらでもある。

そのどれもが、神脈の所在を確かめるための刃になる。


いまクリシュナが抱えているのは王位ではない。

世界の循環そのもの――神脈だ。

それを元老院に知られた瞬間、皇女は皇女ではなく“器”にされる。

回収され、割られる器に。


ゼクスが王でいる限り、矛先は分散する。

庶出の王が前に立っている間は、神殿も元老院も正面から王城を飲み込めない。

だからこそ、クリシュナは“清らかな皇女”を演じながら、神脈を抱えていられる。


だがゼクスが王位を空け、海に出れば均衡が崩れる。

空白は必ず埋められる。

神殿は「正統」を掲げ、元老院は権力を取り戻し、その混乱の中心に立たされるのは

――新たに即位する人間だ。


皇女は、あらゆる角度から、あらゆる可能性を探る。

最も安全で、最も〈おもしろい〉立ち位置を。


「……ああ、そう」


彼女は頷く。

「海賊船を装う。身分を隠す。禁海へ潜る。王鯨を探す」

ゼクスがまだ言い終える前に、クリシュナは“結論”まで口にした。

まるで相手の脳内を覗いているかのように。

「……素敵。英雄譚の始まりね」

そして、にっこり笑う。

「ノア、あなたがゼクスを唆したの?」

その言葉の刃は、薄い絹に包まれている。

「人聞きの悪いことをおっしゃるのはやめてください」

ノアは知らぬ顔で即答する。


「……ねえ、ゼクス」


声は甘い。

甘いまま、どこか浮ついている。


「私、最近ずっと気分がいいの」

ゼクスは眉を動かさない。

「気分?」

「ええ。常に、どこかが高揚してる」

クリシュナは胸元ではなく、腹に手を当てた。

ゆっくりと、撫でる。

まるで――腹の奥にいる何かを愛でるように。

「腹に子がいるような気分なのよ」

ゼクスの視線が、わずかに鋭くなる。

「……冗談を言うな」

「冗談じゃないわ」

クリシュナは笑う。

笑って、吐息を漏らす。

「ほら。ここ」

腹を撫でる指先が、少しだけ震えた。

「温かいの。私の中で、何かが育ってる」

ノアが無表情に言う。

「神脈です」

クリシュナは軽く頷いた。

「そう。神脈」

そして、うっとりと目を細める。

「最初はね、ただ“溜まってる”だけだった。胸の奥に重みがある程度。でも今は違う」

指先が、さらに下へ滑る。

「大きくなるのよ。日に日に。まるで胎児が成長するみたいに」

ゼクスの声が低くなる。

「……それは危険だ」

「危険?」

クリシュナは首を傾げた。

その仕草は可憐なのに、瞳が冷たい。

「何が?」

「溜め続ければ、いずれ破裂するぞ」

「ふふ」

クリシュナは嬉しそうに笑った。

「破裂したら、どうなるの?」

ゼクスは答えない。

沈黙を、ノアが切る。

「皇女殿下の器は、流れません」

「知ってるわ」

「流れない器に神脈が溜まり続ければ、循環は止まります」

「止まってるから、平和なのよ」

クリシュナはあっさり言った。

「争いは減った。海賊も減った。港は息を吹き返した。王都は静かだわ」

そして、ゼクスを見上げる。

「あなたが一年かけて作った“制度”も、ちゃんと動いてる」

ノアが短く言う。

「クリシュナ様。それは、表面上にすぎません」

皇女の笑みが深くなる。

「どういう意味?」

ノアは、椅子の前に一歩踏み出した。

「国は、“増える”ことで生きるのです」

クリシュナの眉がわずかに上がる。

「増える?」

ノアは言葉を選ぶように、静かに続けた。

「生まれることです。芽が出ることです。海が実りを返し、森が育つことです」

クリシュナは肩をすくめる。

ノアは、腹に手を当てたままのクリシュナを静かに見つめた。

「神脈は、世界の循環そのものなのです」

「……」

「クリシュナ様が抱えているのは、国の心臓ではありません」

一拍。

「世界の呼吸です」

クリシュナの笑みが、ほんの少しだけ歪む。

「呼吸?」

「吸って、吐いて、回すものです。溜めるものではない」

クリシュナは、ふっと鼻で笑った。

「でも、溜めてる間は気持ちいいわよ」

楽しげに言う。

「私、ずっと満たされてるの。胸の奥が熱くて、頭が軽くて、世界がきらきらして見える」


「出生率が落ちています」


クリシュナの指が止まる。

「……何?」

ノアは視線を上げない。

「この一年で、王都の出生数は目に見えて減りました。沿岸部はさらに顕著です」

ゼクスは言う。

「命が戻っていない」

クリシュナは笑おうとした。

だが、笑みが薄い。

「……そんなの、偶然でしょう」

ノアが否定する。

「偶然ではありません」

「根拠は?」

「祈祷の効きが落ちています。産婆の報告が一致しています。流産が増え、定着しない」

淡々と、残酷に。

「“芽”が立ち上がらないのです」

クリシュナは、腹を撫でる手をゆっくり動かす。

さっきまで愛おしそうだった指が、今は確かめるような動きになっている。

「……私のせい?」

ノアは答えない。

代わりに、言い切る。

「神脈が不安定だからです」

「不安定?」

「溜めているから、循環が止まる」

「でも、止めてるから平和なのよ」

ノアは首を振る。

「平和ではありません。停滞です」

一拍。

「世界が“次の命”を作れなくなる」

クリシュナの瞳が、わずかに揺れた。

それは恐怖ではない。

――悔しさだ。

ほとんど感情をあらわすことがないクリシュナの、一瞬の苦悶を、ゼクスははじめて見たような気がした。

「……流れない水が、腐るのと同じというわけね」

自分という〈欠陥品〉が、ついに世界までも破壊する。

「…愉快だわ」

言葉とは裏腹の、強烈な虚無感がクリシュナを襲う。

世界はどんなふうに壊れてゆくのだろう?

美しく壊れるのは、許せる。

でも。

毒化されて破滅していく世界は、きっと醜悪で凄惨であるにちがいない。

「…おもしろく、ないわね」

「花紋を開くすべを探ります」

ノアがはっきりと言った。

「あなたに、世界を壊させるようなことは、させません」

クリシュナが、目を見開いた。

「告白みたいね」

「告白ではありませんが…私が、クリシュナ様を巻き込みましたから」

「責任を取るのね?」

皇女が笑う。

「聞いたわね?ゼクス。あなたが証人よ」

「何が…」

「あなたが王位を空ける間、わたくしが代理に立ってあげる。そのかわりノアを補佐にするわ。アビゲイルはもう年だし…わたくしの相談役が必要でしょう」

刻印師はぎょっとする。

「好きにすればいい」

ゼクスは即答である。

「そのうち夫にしてしまえ」

「ご冗談を!」

「それもいいわね」

「クリシュナ様!!」

「影妃は、もういいかげん、諦めなさい、ノア。王に寝取られた女のことより、私の世話と政務に注力なさい。責任を取るということはね、私にその身を完全にささげるということよ」

「気の毒にな」

ひとごとのように、ゼクスは嘯く。

「そのようなことはひとことも言っておりません!」

「あなた、私を巻き込んだ、と言ったわよね。世界を壊す女にはさせない、と言ったわよね?それがどの程度の覚悟なのか、見せてもらおうじゃないの」

「・・・っ」

刻印師の顔は、なかば蒼白である。


「話は済んだな?おれは、循環を取り戻すために海に出る」

「女を追う、と正直に言えばいいのに」

クリシュナの笑みが戻る。

「…王鯨、ね」

ゼクスは頷く。

「王鯨沈降が起きなければ、深海は戻らない。深海が戻らなければ、水脈の毒化は止まらない」

そして補足する。

「毒化は循環の詰まりだ。詰まりは、やがて陸に影響する。神脈を解放するためにも、世界の循環が必要だ」

クリシュナは腹に手を当てたまま、笑った。

「……つまり、私の“胎児”を育てるには、世界を動かせってこと?」

ゼクスは短く言う。

「そうだ」

クリシュナは目を細める。

「面白いじゃない」

そして、いつもの可憐な皇女の声で言う。

「…いいわ」

声が甘くなる。

「――行きなさい」


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