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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第37話 深海の王鯨

書庫の最奥は、いつも温度が低い。

石壁に染み込んだ冷えが、灯の熱を拒む。


ノアは机に広げた三つの記録から、視線を動かさなかった。


一つは、沿岸部に残る古い祭祀録。

一つは、沈没船の周囲で「魚が戻った」と記された航海日誌。

もう一つは、禁書指定された深海観測の断簡。


時代も、書き手も、目的も違う。

共通点など、あるはずがない――はずだった。


ノアは、ゆっくりと指を伸ばし、それぞれの文に引かれた線をなぞる。


沈む。

骨。

硫黄の匂い。

百年。


喉の奥で、何かがかちりと音を立てた。


「……違う」


彼は小さく呟く。

「これは、死の記録ではない」

紙を一枚、引き寄せる。

王鯨に関する最古の神話断片。


――海は、王鯨の骨を食む。


ノアは、はじめて息を止めた。

「……生態系だ」

それは祭祀ではない。呪いでも、供犠でもない。

仕組みだ。

巨体が沈み、肉が尽き、骨が残り、そこから、命が湧く。

熱水噴出孔と同じだ。

光の届かない世界で、命は、分解と融解と結合から生まれる。

ノアの指が、震えた。

「王鯨は……」

彼は、声にしなかった。

声にしてしまえば、それが「許される可能性」になる。

だが、思考は止まらない。

百年を生きた個体。

沈降。

母の鱗。

毒化した水脈。

すべてが、一つの円を描く。


王鯨は、深海に“死ぬ”のではない。

深海に、世界を残す。深海を、更新する仕掛けだ。

灯の揺れが、視界の端で歪む。


しかし。


これは、人が真似てはいけない再生ではないのか。

意図的に、王鯨沈降を仕組むのか?

それは、海が次の百年を選ぶ儀式でもある。


だが――もし、条件が揃ったのなら。


そして同時に理解する。

この答えは、誰にでも渡していいものではない。


ノアは、紙束を閉じ、深く、静かに息を吐いた。



◇ ◇ ◇



別れてから、季節がひと巡りしようとしていた。


王城の執務室は、相変わらず夜が長い。

灯の下に積まれた文書は、国の呼吸のように増えていく。

だが、ゼクスはその呼吸を、ただ耐えていただけではない。

取るべきものを取り、退けるべきものを退け、王都の一日を、確かに前へ押し出していた。


――そろそろ、1年か。


すべての日常に、解像度のあがる奇妙な感覚がある。

それは劇的な変化ではなく、色彩の明度と彩度が、わずかにひとつ深まったような感覚だった。


世界は以前と同じ形をしている。

文書も、廊下も、夜の灯も変わらない。

それでも、ゼクスは気づいていた。

自分が、奇妙なフェーズを生きていることに。

これまでの生涯は、一本の線だった。

だが今は、そこに明確な分岐点がある。


――レイシア。


彼女と出会う以前と、それ以降。

時間はもはや、暦では測られない。

女を思った回数で日々を数えることが習慣になった。


一日一度か、あるいは何度も。

それが喜びなのか、痛みなのか、もう区別はつかない。

気づけば、記憶の配列そのものが書き換えられていた。


戦場の判断も、王としての決断も、すべてが――たった一人の女を基準に再構成されている。

そしてゼクスは、もはやそれを否定しない。

むしろ、最も合理的に、最も迅速に――あの女を取り戻す方法を考えている自分を、受け入れていた。


机上の最上段に置かれているのは、元老院議事録の写しである。

港湾監督権の移譲。

海運税の透明化。

表向きはイリスの娼館が運営している商団への「準公的認可」。

そして、深海遺産――母鱗をめぐる調査団の設置。


戦場で剣を振るうより、よほど神経を削る一年だった。

山のように積み上がる書類の中に、切望している私信は、ない。

思えば、最初の1通が届いたこと自体、奇跡的なことだった。

オルフェンからの手紙が届かないのは、不自然なことではない

――と、ゼクスは自分に言い聞かせ、激しい不満と衝動をなんとか抑えている。


処刑された体裁になっている影妃や軍師の存命自体を、王都に伏せなくてはならない。

正確な居場所は書けない。

頻繁な書簡は、監視を呼ぶ。

だから軍師は、荷に紛れ、帳面に挟み、半ば運にまかせて、流れの中に放ったのだ。

危険を冒してまで、伝えようとしたのだ。

影妃の懐妊を。


「……ゼークースー。顔が死んでるぞ」


いつのまにか机の脇にジンが立っている。いつもの軽い調子の声だ。

ゼクスは書類から視線を上げずに答える。


「うるさい」


ジンは肩をすくめた。

「なあ、知ってるか。鮫人族の至上命題は――〈自由〉だろ」

煽るように、ふふん、と少年は鼻で笑う。

「それをさ、制限だらけの〈制度〉相手に戦ってる。……痛々しいねえ」

一拍。

「どんだけ我慢してんだよ、オマエ。…そろそろ、限界じゃねえ?」


ゼクスはペンを置き、ようやく椅子にもたれた。

窓の外は黒い。

遠くの灯が、王都の城壁の向こうで小さく揺れている。


「……成果は出ている」

「はいはい。港は息を吹き返し始めた。海運は動いてる。海賊まがいの連中も、表向きはおとなしい」

ジンは指を一本立てた。

「で?」

ゼクスの眉がわずかに動く。

「オマエが一番欲しい“成果”は、何だよ?」

沈黙が落ちる。

答えが簡単すぎるから、言葉にしたくなかった。

ジンは、わざと優しく言う。

「女、だろ」

ゼクスは、面倒くさそうに、息を一つ吐いた。

「もはや否定する気もないってか」



そのとき、扉の外から控えめな足音が聞こえた。

扉の前で、かつん、と足音がとまる。

静けさと、落ち着き。

この1年で、さすがに、その男の来訪には、慣れた。

ジンは、すぐに気配を消して、窓から音もなく退散する。


「入れ」

扉がゆっくりと開く。長い銀髪が、揺れている。

刻印師ノアがその長い腕に抱えているのは、海図でも戦報でもなく、分厚い写本の束だった。

埃の匂いがする。紙ではない。羊皮紙だろう。古代の文献の保存に使われる匂いだ。

古い祈りの気配が、文字の隙間に残っている。

「今日は、なんだ」

だいたい、この男が王の執務室に持ってくるものといえば、たいがいが面倒事だ。

あれやこれやもっともらしい理屈を述べ立てて、結局は〈王の仕事〉とやらを遂行させられる羽目になる。

「古代祭祀を調べております」

「なにか進捗が?」


禁海の結界――

その封印核として据えられた母の鱗を解放するには、毒化した水脈を正し、海そのものの再生を促さねばならない。

それは一つの呪式では足りず、一国の判断でも及ばない、時間と層をまたぐ作業だった。

銀髪の刻印師ノアは、その解を求めて、ほとんど書庫に棲みつくような時間を日々過ごしている。

昼と夜の区別は曖昧になり、食事は机の脇で済ませ、眠りは文献の山に埋もれる形でしか取らない。


彼が開くのは、禁書指定された古代の祭祀録、沿岸部に伝わる断片的な口承、他国の沈没史、名もなき司祭の私記――体系だった学問ではなく、残骸のような知識ばかりだ。


だがノアは、それらを切り捨てない。

矛盾する記述を並べ、時代も土地も違う儀式を重ね、一致する“条件”だけを抜き出していく。

その緻密な作業への集中と分析、明晰な頭脳と献身を、ゼクスは認めざるを得ない。


「王鯨沈降」

視線を伏せたまま、何層にも重ねられた古代の情報の中から、大切な何かをすくい取るように、ノアは言った。

「王鯨?」

「百年を生きた鯨です。それを、禁海に沈める」

「それで、何が起こる」

「深海が再生します」

ノアが視線を上げる。その銀の瞳に、確信に満ちた光が宿る。

「深海に沈んだクジラの死骸を中心に、数十年から百年以上続く特殊な生態系が生じるのです。…巨体の死が、深海に百年の命を与える」


ゼクスのなかに眠る鮫人の血が、ざわり、と音を立てて波打った。

海への衝動。そしてそれは、愉悦、に近かった。


◇ ◇ ◇



同じ夜、王城の別棟で、ラスが星盤を広げていた。


灯は低く、風はない。

窓辺の薄布だけが、微かな潮の匂いを運ぶ。

ラスは長く息を吐き、星盤の上に小さな石を置いた。


星位が、僅かに逆行している。

通常の読みでは、あり得ない。

だが、星は嘘をつかない。

嘘をつくのは、読み手の方だ。

ラスは文献の一節を思い出す。


――花は開き、紋は名を持つ。


潮位表を重ねる。

月齢を重ねる。

そして、今夜の星。


線が結ばれた。


花。


偶然の形ではない。

意図のある配置。


「……来る」


ラスは小さく呟いた。

祈りでも祝福でもない。確認だ。


「花紋を開く者が、出現する」


そして、遠く――禁海の方角へ視線を向ける。

ここからは見えない灯。

だが、確かにそこに“呼吸”があるのを、星は示していた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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