第36話 廃港と白い海
船が、ゆっくりと岸へ寄せられた。
ここは、地図にも名が薄く記されるだけの港町だった。
かつては禁海に最も近い交易港として栄えたが、王権が海を封じて以降、人も船も去り、今では廃港となっている。
桟橋は傾き、杭は潮に削られ、建物の壁は、風と塩に晒されて白く荒れていた。
「……静かですね」
ミラが、小さく呟く。
港に、人影はない。検問も、徴税官もいない。
「王権の支配が、及ばない土地よ」
レイシアは、そう言って外套を掻き合わせた。
風は冷たいが、不思議と息がしやすい。
ここでは、誰も彼女を「影妃」と呼ばない。
港を囲む海は、異様だった。
本来なら、光を反射し、色を孕むはずの浅瀬が、一面、白い。
白化した珊瑚が、海底に骨のように折り重なり、魚影は乏しい。
潮は澄んでいるのに、生の気配がない。
「……これが、禁海の縁……」
カインが、低く息を吐いた。
レイシアは、言葉を失っていた。
——知ってはいた。
人魚の海が汚染され、水脈が毒を含み、珊瑚が死に絶えたことは。
だが、実際に目にする白い海は、想像よりも、ずっと静かで、ずっと残酷だった。
まるで、怒ることも、嘆くこともやめた世界。
◇ ◇ ◇
その夜。
レイシアは、簡素な宿の一室で、ひとつの包みを開いた。
厚手の革で装丁された、古い画集。
——ゼクスから、かつて見舞いとして贈られたものだ。
子ども向けの画集だと、王は言った。幼い頃、母にせがんでよく一緒に眺めたと。
大切な、思い出の。
「……これだけは、持ってきてしまったわ」
王にまつわるものは、すべて捨ててきたと思っていたのに。
会いたくないといえば、嘘になる。
なにもかもを、なかったことになんて、できるはずもない。
ただ。
「…どうか、お元気で」
きっと、いつか。
王は美しい妃を迎え、あまねく賢政を敷いて国を統治する方になる。
隣に立つのは自分ではない。
もう、二度と、会うことも、ないかもしれない。
それでも。
「忘れずにいる、ということくらいは、許されるかしら」
レイシアの指が、無意識に画集をなぞる。
王の母である、鮫人族の側室が、若き日に描いたという海の写生集。
その中の一枚に、レイシアの指が止まった。
深い群青。
光を受けて揺れる水面。
その下に広がるのは、色とりどりの珊瑚と、人魚の影。
——人魚の海。
禁海と呼ばれる以前の、まだ、生きていた頃の海。
「……どうしてかしら」
理由もなく、心が引き寄せられる。
この海を、この場所を、自分は知っているような気がした。
それは、記憶ではない。
理屈でもない。
もっと、深いところで。
◇ ◇ ◇
翌朝。
レイシアは、港を見下ろす丘に立っていた。
廃れた倉庫。
崩れかけた市場跡。
人は少ない。しかし、完全に絶えたわけではない。
海を捨てきれなかった者たちが、細々と、ここに残っている気配がある。
「……ここに、商会を置くわ」
唐突に、レイシアは言った。
ミラが、目を見開く。
カインが、面白そうに眉を上げた。
「この港町に?」
「ええ」
白い海を、まっすぐ見据えて。
「ここは、王権の手が届かない。神殿も、元老院も、支配できない」
だからこそ。
「——この海を、もう一度、生かす道を探りたいの」
それは、宣言ではない。
誓いでもない。
ただ、決めた、という声だった。
「時間はかかるわ。お金も、人手も、知恵もいる」
レイシアは、腹部にそっと手を当てる。
月経が、止まっていた。
冬至節前夜の記憶が、切なく、あたたかく、レイシアの心を満たす。
時間をかけて、気遣われ、ゆっくりと、しかし何度も触れあった、たった一夜だけの記憶。
「……でも、未来がある」
父親の名は、秘めると決めている。
自分の中にあるもの。
そして、この白い海の底に、まだ眠っているもの。
「ここを、拠点にする」
影妃としてではなく。
逃亡者としてでもなく。
「——商人として」
風が、港を吹き抜ける。
ここから始める。
この、廃港と、白い海から。
◇ ◇ ◇
港町の外れ。
屋根の一部が抜けた元倉庫を、仮の拠点として借り受けた。
潮の匂いと、古い木材の軋む音。
壁の隙間から、遠く波の砕ける音が聞こえる。
完璧とはほど遠い。だが、雨風は凌げる。
「……で?」
壊れかけの樽に腰掛けたカインが、軽い調子で口を開いた。
「なにから始めます?」
レイシアが答えるより早く、カインはにっこりと笑う。
「僕のおすすめは――酒場ですね」
「……酒場?」
オルフェンが、思わず眉をひそめる。
「まずは人が集まる場所が必要でしょう。師も、行商人も、港に戻る理由が欲しい。酒と飯と、噂話。金と情報が一番早く回り始める」
「しかし……」
オルフェンは腕を組む。
「目立ちすぎる。王都は、表向きこの港を切り捨てた。今さら活気づけば、裏で何をしているか勘ぐられる」
「頭が固いなあ」
「なんだと?」
「融通がきかない生真面目さも、僕好みですけどね?」
「やめろ」
カインは肩をすくめた。
「軍師殿は、冗談の交わし方もご存じない」
「その手の冗談は不愉快だ」
ハイハイ、とカインは手を振る。
「堂々と“商売”をする。復興してます、って顔で。都に流す金も、正面からじゃなく――商いの流れとして、自然に回す」
レイシアが、静かに頷いた。
「皇女殿下との約束も、その方が守れるわね」
オルフェンが、少し驚いたように彼女を見る。
「……そこまで、見通していたのですか」
「ええ」
レイシアは視線を倉庫の奥へ向けた。
「王都は直接救えない。でも、裏からなら支えられる。
そのためには、ここに“正体のわからない金の流れ”を作る必要がある」
「つまり――」
「表は商団。裏で、王都と繋がる」
カインが小さく「さすがレイシア様」と嘯く。
「ほらね?情報の集まる場所が必要でしょう?」
「ええ」
「……でしたら」
オルフェンが、静かに口を開く。
「研究拠点も、同時に必要です」
二人が、彼を見る。
「珊瑚の白化は、単なる自然災害ではありません。
水温、毒素、流速、地脈――複数の要因が絡む“循環不全”です」
「循環?」
「ええ。港が死んだのは、経済だけではない。海そのものが、詰まり始めている」
オルフェンは一拍置いた。
「海を再生できれば、漁場が戻る。漁が戻れば、人が定着する。人が定着すれば、商いが育つ」
カインが、ゆっくり頷く。
「つまり……研究は、金食い虫じゃなくて、投資ということですか」
「そうだ」
オルフェンは続けて言う。
「場当たり的な復興は、数十年後に必ず破綻する。だが、海の循環を取り戻せば――この港は、もっとずっと長く持つはず」
レイシアは、小さく息を吐いた。
「人を集める場所と、海を守る場所。どちらも必要ね」
そのときだった。
「……レイシア様」
ミラが、そっと外套を差し出す。
「もう少し、しっかり羽織ってください。港は、夜になると冷えます」
「大丈夫よ、ミラ。そこまで寒くは――」
「だめです」
きっぱりと、侍女は言う。
オルフェンが、ちらりとミラを見る。
「……少し、過保護すぎでは?」
ミラは、ぴしりとオルフェンを見据えた。
「殿方には、わからない事情というものがあるんです」
「……事情?」
「ええ。特に、女性の体は」
一瞬の沈黙。
オルフェンは何か言いかけて、やめた。
「……失礼しました」
ミラは何も言わず、レイシアの背に外套を掛け、紐を結び直す。
「お体を冷やしてはいけません」
レイシアの瞳をまっすぐに見つめて、ミラは微笑んだ。
…レイシア様も、お腹のお子様も、わたしがお守りします。
廃港の倉庫で、小さな笑い声が交わる。
まだ何もない。
だが、確かに——“生きる場所”の音がし始めていた。
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