第33話 影妃の処刑
背に走る冷えは、もうない。
湯殿の湿った空気のなかで、ミラは静かにレイシアの背を拭っていた。
肩甲骨のあいだ、衣の下に隠されるはずの花紋が、淡く、しかし確かに残っている。
「……神脈から切り離されても、刻印自体は、消えないのですね」
消しましょう、とノアは言ってくれた。
ラスとふたり術式を重ねれば、刻印の痕跡は消えるだろうと。
――でも。
レイシアは、短く答えた。
「消さないわ。一生、背負っていく」
ミラの手が、わずかに止まる。
「…今となっては、美しい刻印ですね」
そう言ってから、主を気遣うようにふっと息を吐いた。
「もう、痛みはないの」
レイシアは静かに言った。
「ただ、これは——王とつながっていたしるし。そして……ノアの犠牲の証」
その名を出した瞬間、湯殿の空気がわずかに張り詰める。
王が眠り、水牢から救出されたレイシアを介抱したのはノアだ。
様子が、どこかおかしかった。
本来、祭主をつとめるはずの冬至節にノアの姿がなかった。
レイシアは、ラスエルを問い詰めた。
——そこで初めて、自分の代わりに、神脈の循環点となる刻印が、ノアの胸に刻まれたことを知った。みずからの血と肉を抉って刻んだ経脈の刻印が、神脈の流れを受けとめている。
ミラは話題を切り替えるように、布を畳んだ。
「娼館とは、すでに連絡を取りました」
「船は?」
「夜明け前。港の外れです。国外逃亡になります」
レイシアは頷く。
「イリス様は、娼館に残られるそうです。裏から商団を支えると」
「……無理をお願いしたわね」
「いえ。彼女、自分で決めました」
ミラは淡く笑った。
「影妃を<見逃す>条件は、王都へ資金を流すこと。…クリシュナ様との取引ですね」
「ええ。ラスから聞いているわ」
影妃を神脈から切り離すための、ノアと皇女との取引。
「カインは、レイシア様に同行を。万が一の時のために、腕の立つ人間が必要だろうと」
レイシアは、少しだけ目を伏せた。
——守られてばかりではいられない。だが、今は受け取る。
「レイシア様…陛下とのことは」
「終わったことよ」
「でも」
「ミラ」
それ以上の言葉を、レイシアは制した。
「逃がしてくださる。…眠りの前に、生き延びろ、と言ってくださったわ。それだけで、もう十分よ。あの方にはあの方にしかできないことがたぶんある。影妃ごときにかまっている場合ではないわ。…わたしだけ、覚えていればいいことよ」
想いも。記憶も。
「足枷になるわけにはいかないわ」
「…レイシア様が、苦しそうです」
泣きそうな顔で、ミラが言う。
「いいのよ。分かっていて、選んだんだもの。…準備を進めて」
「はい」
ミラは一礼し、静かに湯殿を出ていった。
◇ ◇ ◇
冬の朝は、冷たい。
王都中央広場には、夜明け前から人が集まっていた。
影妃処刑——その一言だけで、民は呼び寄せられる。
罪状は、王権の転覆をもくろんだ謀反。
王宮内部の詳細な地図、地下水路の構造図。
いずれも「影妃が密かに作成し、反逆を企てていた証拠」として掲げられている。
——あまりにも、整いすぎた罪だ。
刑台の上には、台座がひとつ。
その中央に、罪人が跪いている。
実際は、女の体躯を模した、無機質なひとがたの藁である。
顔を隠すように深く覆った被布から、黒髪だけが、風になびいて揺れている。
光を吸うような、深い黒の巻き毛。
影妃レイシアのものだと、誰もが理解した。
(……本当に、殺す気だ)
群衆がざわめく。
壇上に、王が現れる。
朱金の瞳。
深海の闇のような髪。
覚醒した王の姿は、民にとっても、神官にとっても、まだ馴染みがない。
だが、その威圧感だけは、否応なく伝わった。
王は、何も語らない。
弁明も。
裁きの言葉も。
感情を削ぎ落とした顔で、ただ、静かに、剣を抜く。
神官が、形式的に宣言する。
「影妃レイシア。王命に背き、国家を危機に陥れた罪により——」
言葉が終わる前に。
王は、一歩、踏み出した。
躊躇はない。
狙いも、ためもない。
一閃。
風を切る音すら、短い。
剣は、ひとがたの首を、正確に断ち切った。
——その瞬間。
仕込まれていた血糊が、弾ける。
悲鳴が上がる。
「首が……!」
悲鳴。
どよめき。
歓声。
「影妃は死んだ」
誰もが、そう“見た”。
ひとがたが倒れ、血に染まった台座の上に、切り落とされた〈首〉が転がる。
王は、剣を振り払い、鞘に収める。
一滴の血も、己には付けずに。
そして、低く、告げた。
「——首を晒せ」
そして、足元に落ちた黒髪を、一瞥もせず、踵を返した。
――処刑は、完了した。
その日をもって、影妃レイシアという名は、王都の記録から抹消された。
同じころ。
禁海に面した港町へ向かう一隻の船が、音もなく岸を離れた。
◇ ◇ ◇
「あの女、刻印を消さなかったらしいな」
忌々しげに、ゼクスはつぶやく。
自分にだけ、消えない爪痕を残して。
ほかの男の刻んだしるしとともに逃げるとは。
「刻んだのはノアだろうけどさ、あの花紋は、オマエとつながってた証でもあるだろ」
「気にくわない」
癪に障る。腹が立つ。
「で、お前はなんでここにいるんだ」
ゼクスの目がジンを睨む。
「あの女についていけと言わなかったか」
「カインがついていくって言うから。同じような役割のやつ、ふたりもいらないだろ」
「カイン?」
「覚えてるだろ、娼館で会ったやつ。いい男だよなあ、あんなのがいると、影妃も独り寝の夜は退屈しないだろうなあ」
「踏み殺すぞ」
「あ、うそうそ。悪かった」
軽口をたたく裏で、少年は思う。
…もっと、焦ればいい。嫉妬で狂えばいい。
いつだって、王が一番に望んでいることを知っているのは自分だ。
我慢できなくなればいい。
どうせ影妃を追う気なんだから。
なるべく早く追わせよう。イライラしてるコイツのとばっちり受けんのはごめんだ。
「…まあ、でもさ。オルフェンには、ちょっと、悪いことしたよな」
ぽつりと、ジンがつぶやく。
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