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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第32話 敗北という選択

喉元に、熱が落ちた。


ゼクスの手が、レイシアの首にかかる。

締めるでも、突き飛ばすでもない。

――逃がさない位置。


その瞬間だった。


「……ゼクス、様?」


掠れて、弱くて、それでも確かに――生きている声。


ゼクスの指が、止まる。


レイシアは、ゆっくりと目を開いた。

焦点が合うまで、少し時間がかかる。

それでも、目の前に立つ男の影を見て、ほっと息を吐いた。


寝台の脇に立つ王は、以前よりも背が高く見えた。

いや――違う。


存在感が、まるで別物だった。

深海の闇を思わせる髪が、腰まで流れ落ち、

瞳は、赤と金が溶け合ったような色をしている。


「……よかった」

 微笑もうとして、失敗する。

「ご無事で……」

声が震えた。と、ふいに、レイシアは、体を起こして、抱きしめるように、ゼクスの首に手を回す。

女の、体温を感じる。匂いが、甘い。

「おい…」

一瞬、理性が、飛びそうになる。


「……よかった。もう、目覚めないんじゃないかと……」

言葉の途中で、ぼろぼろと涙があふれた。

「……怖かった」

それは、取り繕いも、覚悟もない、ただの――素の感情だった。


ゼクスは、完全に硬直する。


泣くところを、初めて見た。

強くて、したたかで、痛みをひた隠す女だったはず。

この期に及んで、自分のことだけを案じて、泣いている。


喉が、鳴る。


衝動が、反転する。一瞬、狂気がよぎる。


殺してしまいたい。

この女は危険だ。

殺せない。

縛れない。

触れたい。


目が合う。

「おれはお前を殺しにきたんだ」


生かしておけるはずがない。

この女は、もはや完全に、自分の弱点だ。

そんなことは。

「冗談じゃない」

果たすべきことが終われば、王などやめてやる。

誰にも、何にも縛られず、自由に。


レイシアの瞳が、意志的な光を帯びて潤んだ。

「では、どうぞ」

「なんだと?」

「わたしが枷ですか。あなたの邪魔になるのなら、どうぞ殺してください」


――この女は。

なぜ、怯えないのだ。媚びもせず、命乞いもしない。


この自分の、苛立ちは、なんだ。なぜ自分のほうが不安になるのだ。


「あの、夜に、お前を抱いたばっかりに…こんなことに」


なぜ秘めなかったのか。

なぜ一夜をこの女に懇願してしまったのか。

なぜ、触れてしまったのか。


「あなたにとっては、<なかったこと>にしたい夜でも」

レイシアは、微笑んだ。

「私にとっては、かけがえのない大切な夜でした」

ゼクスが、息をのむ。


「あなたから救われた命です。あなたが自由になるために、必要なら、差し出します」


――殺してしまえ。

壊してしまえ。そうすれば楽になるはず。

この不安と苦しみから、解放されるはず。


ゼクスの指が、レイシアの首にかかる。

朱金の視線が、琥珀色の瞳に縫い止められる。

レイシアが、静かに目を閉じた。


――殺せる、はずが。

この女の声。この女の体温。

喪ってしまったら、おれは正気でいられるのか?


次の瞬間、すさまじい衝動に駆られた。

かみつくように、女の唇をふさぐ。

殺意なのか、欲情なのか、もはや境目がわからない。

レイシアが瞳を見開く。


――食い殺される、と、思った。

でも、それでもいいと。


口づけは、みるまに深く激しくなる。

夜着がはだける。


――だめだ。

――だめだ。とまれ。


欲情を制御したことなどない。衝動を抑えたことなどない。

なのに。


レイシアを胸の下に組み敷いて、ゼクスは言う。

低く、声が掠れる。

「抵抗しろ」

ふたつの視線が交わる。

「抱き潰すぞ」

レイシアは、まっすぐに、ゼクスの荒れた視線を受け止める。

「かまいません」

女の声に、心臓が、軋むように痛む。

自分を喪いそうな感覚に、ゼクスは戦慄する。


「それであなたが解放されるのなら」


むしろ挑むような声音だった。

「あなたは、なにもかもを後悔なさっているようですが」

琥珀色の瞳は、ゼクスの瞳を捉えて離さない。

「わたしは、なにひとつ、後悔していません」


――喪えない。この女を、喪えるはずがない


強烈な殺意と欲情を、ゼクスはギリギリの自我で抑えつける。

「ですが」

女の声が揺れる。

「私の存在が、私の記憶が、あなたを縛るのならば、…あなたの望むとおり、なにもかもなかったことに」

「黙れ!」


ゼクスは、荒い息を整えながら、寝台に押しつけていたレイシアの肩から、手を放す。

「なにを怖がっているのですか」


――怖がる?だれが?この、おれが?

――だれを。この女を?


「ふざけるな…冗談じゃない…」

苦しい。

自我が、引き裂かれるように、軋む。

なぜこんな厄介なモノを、抱え込んでしまったのか。

「ゼクス様…どこか、痛むのですか」

思わず触れようとした女の手を、制止するように、ゼクスが言う。

「触るな」


痛む?

痛むのは。


「お前のつけた爪痕だけだ」

「え?」

「消えない傷だぞ。どう責任を取る」


――これ以上は、だめだ。


ゼクスは、絞り出すように、告げる。


「…消えろ」

おれの目の前から。


「逃げる準備は整えてやる」

命令の形をした、その声は、ひどく低く、掠れていた。

それ以上、何も言わない。

ゼクスは踵を返す。


振り返らなかった。

もし振り返れば――もう一度、首に手をかけてしまう。

あるいは、二度と離せなくなる。


だから、見なかった。

それが、唯一の自己制御だと分かっていた。


◇ ◇ ◇



「…完全勝利だった」



「どっちが?」

ツヴァイとオルフェンが、同時に、ジンの顔を見る。

「影妃」

軍師の私室だ。

オルフェンの傷は完全には完治しておらず、寝台に横になっていた。

が、ジンが戻るや否や、まちかまえていたように、体を起こした。


「…さすがだな」

軍師が、ひとこと。

「我々の手には負えませんからね…あの状態の王を手なづけられるとは、見事です」

ツヴァイも頷き、それで?と先を促す。

「寝なきゃよかったなんて、自分で墓穴掘る発言したくせに、わたしたち関係を白紙にもどしましょう的なことを言われてそんなつもりじゃないってけっこう焦ってるかも」

ジンの解説に、うーむ、と男たちは唸る。

「…そういう展開になっているのか」

「それはもう、後戻りするのは無理なんじゃないか?」

「むりむり」

「だったらいっそのこと、政局が落ち着いたら影妃を正妃に迎える算段を目論んだほうがいいのでは」

ツヴァイは提案する。

「大手を振って賛成はできないが…」

クリシュナよりは、少しだけましかもしれない。

言葉には出さず、軍師は微妙な立ち位置をとる。

「消えろとか逃がすとか言ってたって、どうせ追うだろ。そのうちさ」

「…」


側近たちは、揃ってふうと息をついた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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