第30話 覚醒
最初に起きたのは、音だった。
低く、深い。
氷室の奥、石の内側から――まるで海の底で鳴る、潮の唸りのような音。
「…いったい、なにが…!」
レイシアは、思わず王を守るように抱きしめる。
茅輪が、きしむ。
血を吸い尽くした茅が、限界まで膨らみ、一本、また一本と、編み目が裂けていく。
氷室の中央。
石棺の上に伏していた王の身体が、わずかに震えた。
鮫人族の血が、封じられていた“もう一つの王の核”が、外から注ぎ込まれた血に呼応する。
——ドクン。
王の心臓が、強く打った。
氷室の空気が、一気に湿る。
壁に刻まれた古い紋が、青白く光を帯びる。
ゼクスの背が、大きく反る。
息を吸う音が、氷室いっぱいに響いた。
「——ッ」
声にならない声。
次の瞬間。
石棺を覆っていた氷霜が、内側から砕け散った。
風ではない。
爆発でもない。
圧だ。
ゼクスが、起き上がる。
ゆっくりと。
水中から浮上する生き物のように。
髪色が、みるまに変わっていく。
夜明けの黒だったはずのそれは、水に濡れたように艶を帯び、やがて深い紅を孕んだ。
黒でも赤でもない。
血と闇が混ざり合った、鮫人族の色だ。
瞳が、開かれる。
そこにあったのは、もはや王家の銀を散らした青灰ではなかった。
赤。
ただの赤ではない。
溶けた金を底に沈めたような、深く、重い赤金。
理性も、記憶も、まだ浮上していない。
あるのは、ただ——生き延びるための本能と、支配するための力だけだ。
ゼクスは、周囲を見ない。
誰も、認識していない。
ただ、息を吐いた。
——ザァ……ッ。
それに応じて、氷室の床に、水が滲み出す。
石の隙間から。紋の溝から。
ありえないはずの水が、溢れる。
魔力が、暴走しはじめていた。
だがそれは、制御を失った“力”ではない。
本来、押さえつけられていたものが、初めて呼吸をした状態。
ゼクスの喉が、低く鳴る。
獣のそれに近い音。
「……陛下!」
レイシアが叫ぶ。が、呼びかけは、届かない。
ゼクスの意識は、まだ、ここにない。
氷室の天井に、亀裂が走る。
石が、軋む。
水が、奔る。
それは眠りでも、昏倒でもなかった。
呼びかけに応じる“核”そのものが、まだ戻っていない。
肉体だけが先に目覚め、血と魔力と、本能だけが、王としての殻を突き破ろうとしている。
氷室の天井に、細かな亀裂が走った。
石が、低く軋む。
床を満たしていた冷水が、突如うねりを上げ、奔り出す。
神殿が、王の覚醒に耐えきれず、悲鳴を上げている。
(……このままでは)
レイシアは、息を呑んだ。
(氷室ごと、離宮ごと、水に呑み込まれる)
次の瞬間だった。
抑えを失った魔力が、完全に解き放たれる。
神脈から切り離された力が、行き場を失い、暴風のように、嵐のように、空間そのものを引き裂きはじめた。
「ゼクス様……だめです!」
叫びは、奔流に掻き消されそうになる。
レイシアは、考えるより先に動いていた。
濡れた床を踏みしめ、両手で、ゼクスの顔を包み込む。
冷たい。
けれど、生きている。
開かれた瞳は、もう以前の王のものではなかった。
血の色を孕んだ深紅の奥に、理性も、記憶もない。
ただ、何かを壊し、何かを求める衝動だけが渦巻いている。
それでも——レイシアは、その目を逸らさなかった。
琥珀色の瞳が、まっすぐに、王を映す。
「……わたしを見て」
命令ではない。
祈りでもない。
世界に向けた言葉ではなく、たった一人の男に向けた声だった。
「戻ってきて」
水が跳ねる。
石が砕ける。
レイシアは、離れない。
「ゼクス様…わたしは、ここにいます」
暴走する魔力の中心で、ただ一つ、動かない錨のように。
琥珀色の瞳が、強い光を孕んで、王の目を、射た。
◇ ◇ ◇
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
鋭く、暴力的で、世界そのものが敵意を持って襲いかかってくるような感覚。
骨が軋み、血が煮え、魔力が皮膚の内側から噴き出そうとする。
——殺せる。
——壊せる。
——今なら、全部。
ゼクスは、荒い呼吸のまま身を起こした。
視界が滲む。
色が違う。
世界が、以前よりも濃く、うるさく、近い。
「……っ」
喉の奥で、低い音が鳴った。
自分の声だと、少し遅れて理解する。
そのとき。
「……ゼクス様」
名を呼ばれた。女の琥珀色に瞳が、視界によぎった。
その瞬間。
あれほど荒れていた魔力が、ぴたりと止まった。
止まった、のではない。
引き戻された。
息が、整う。
視界が、焦点を結ぶ。
心臓が、正常な拍を取り戻す。
——なぜだ。
ゼクスは、ゆっくりと視線を落とした。
女が、いた。
衰弱し、痩せ、顔色も悪い。
水牢で手首を鎖で拘束されていた痕跡が、まだ消えきっていない。
——おれの、ものだ。
——だれが、この女を、傷つけた?
それでも。
彼女は触れているだけなのに、抑え込まれているのは、自分のほうだった。
(……なんだ、これは)
怒りも。
衝動も。
すべてが、彼女の掌の下で、沈静化していく。
「……レイシア」
思考より先に、言葉が落ちた。
そしてまた、意識が途切れた。
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