第29話 王の眠り
氷室の前室は、まだ冷えていた。
石壁に残る霜が、完全には溶けきっていない。
レイシアは、氷室の寝台の横に膝をつき、その指先で、王の動かぬ手を包む。
王は、眠ったままだ。
呼吸はある。
確かに、生きている。
——それでも、戻ってこない。
水牢から助け出されて丸2日、レイシアは高熱と衰弱で死線をさまよった。
ノアとミラの必死の介抱によりようやく目覚めてみれば、王はいまだ眠り続けている。
背後で、足音が止まった。
「……レイシア様」
ノアだった。
「お体に、障ります」
レイシアは静かに首をふる。
「かまわない」
「すでに、<影妃の処刑>は、王都に発布されています」
レイシアが、ノアを振り返る。
「刑の執行は7日後です。なるべく早く、そして遠くに、逃げなくては」
「ここにいるわ」
ふう、と刻印師は息をついた。
「王が目覚めない理由を、知りたいですか」
「…聞くわ」
ノアは、一拍置いた。
覚悟を測るためではない。
自分が告げる言葉の重さを、もう一度受け止めるために。
「陛下は——影妃と神脈を切り離す王命を」
レイシアの指が、わずかに強く、王の手を握る。
「そのために、ご自身が目覚めない可能性があることも、承知の上でした」
沈黙。
氷室の奥で、水が一滴、落ちる音。
ノアは、続ける。
「影妃を、神脈の器として縛り続ける限り、あなたは消耗し、死ぬまで花紋の痛みに苦しみ続けることになる」
声は、淡々としていた。
「だから、陛下は——眠ることを選ばれた。影妃を、器の宿命から解き放つために」
レイシアは、王の額に、そっと額を寄せた。
「……わたしは」
喉が、わずかに震える。
「器として、ここで終わるつもりだった」
「ええ」
「影妃が神脈を受け止め続ければ、王は、何も失わずに戻れたでしょう」
それが、最も安全な選択だった。
「だから、器として壊れる道を、選んだのに」
ノアは、低く言った。
「陛下は、影妃を自由にするために、目覚めない可能性を引き受けた。あなたは、王の神脈を引き受けるために、命を差し出すつもりだった」
それは、すれ違いではない。同じ方向を向いた、別々の覚悟だった。
レイシアは、王の手を胸に引き寄せる。
「……馬鹿だわ」
小さく、笑う。
「二人そろって、命を賭けるなんて」
ノアは、深く頭を下げた。
「刻印師として、この結末を止められなかったことを、詫びます」
レイシアは、首を振った。
「いいえ。あなたのせいじゃない。…でも、わたしは、ここを離れないわ」
ノアが、顔を上げる。
「目覚めるまで?」
「いいえ」
レイシアは、王の手を、強く握った。
「目覚めなくても」
その言葉は、揺るがない。
ノアは、何も言わなかった。
言葉は、もう不要だった。
そのとき、レイシアは、ふと気づいた。
背中の痛みが、ない。
ノアの気配が——以前と、わずかに違う。
氷室の冷気とは別の、底の知れない重さが、そこにあった。
「……ノア」
呼ぶと、刻印師は一瞬だけ、遅れて顔を上げた。
顔色が、悪い。
いや——悪いというより、“削れている”。
「あなた……何を」
問いかけようとして、言葉が止まる。
答えを聞いてしまえば、何かを、取り戻せなくなる気がした。
ノアは、静かに微笑んだ。
「影妃は、もう“器”ではありません」
ノアは、淡々と続けた。
「七日後、あなたは公的には〈処刑〉されることになっています。罪状は、謀反。反乱。王権転覆の企図です」
言葉は冷たい。だが、そこに悪意はない。
「証拠として提出されるのは、あなたがひそかに作成していた王宮の詳細な地図です。…本来は、逃亡経路と避難導線を確保するためのものでしたが……元老院は、それを“軍事準備”と解釈するでしょう」
一拍。
「水牢に落とし、精神を削り、“器”として利用し続ける——それが、元老院の本来の意図でした」
ノアは、静かに首を振る。
「しかし、もはやそれは不可能です。神脈から切り離された影妃には、器としての価値がない」
ノアは、事実を列挙するように続けた。
「神脈を受け止めることも、循環させることもできない——つまり、利用できない」
少し間をおいて、ノアは言う。
「そして、利用できない影妃は、元老院にとって“危険”でしかありません」
レイシアのほうを見ることなく、ノアは言葉を重ねる。
「あなたは、王宮の構造を知りすぎています。神殿の祭祀、神脈の更新、封印の手順、地下水路、物流網、権力構造…誰が、いつ、何を恐れ、どこで嘘をつくか——」
淡々と。
「影妃として生きた年月が、あなたにそれらの知見を与えてしまった」
そして、結論を落とす。
「野に放てば、国を揺るがしかねない存在。囲っても、利用できない。記憶を消すことも、口を封じることも、確実ではない」
ノアは、静かに言った。
「だから、彼らが納得する選択肢は一つしかありません」
処刑。
「死という形でしか、〈影妃〉を終わらせられない」
だから、と。
「王は、〈完全な罪〉を用意しました」
「誰も異を唱えられず、誰も弁護できず、誰も“影妃の救済”を主張できない罪です」
それは、死刑宣告であると同時に——
「影妃が処刑されれば、世界は“影妃の死”を受け入れる。そしてあなたは、その瞬間から、誰にも、何にも縛られない。神殿にも、元老院にも、王権にも属さない——自由の身です」
ノアは、そこで言葉を切った。
「それが、王の選んだ結末です」
その声に、どこか、切なげな響きがあった。
◇ ◇ ◇
氷室の外縁。
茅輪の封印を前に、ラスはひとり立っていた。
白い髪が、灯りを反射して淡く光る。
白い瞳は、目の前の現実ではなく、
<今この瞬間に重なって存在する“別の層“> を見ていた。
そこへ、足音。
「……ラス」
オルフェンだった。
「王の容態を、どう見る」
単刀直入だった。ラスエルは、ゆっくりと振り返る。
「“生きている”」
それから、少し間を置いて、
「しかし、“世界に戻っていない”」
オルフェンの眉が、動く。
「……どういう意味だ」
「王は今」
ラスは、茅輪に手を触れない距離で、言った。
「神脈から、完全に切り離されています」
「……」
「眠りではありません。封印でもない」
白い瞳が、オルフェンを見据える。
「中断です」
オルフェンは、言葉を失った。
「神脈は更新された。王権は、正常に継承された」
それでも。
「王自身は、その更新先に接続されていない」
ラスは、淡々と告げる。
「だから、目覚めない」
オルフェンの拳が、強く握られる。
「……戻す方法は」
「あります」
即答だった。
「ただし——」
一拍。
「王と同族の血を、茅輪に捧げる必要があります」
オルフェンの呼吸が、止まった。
「……贄か」
「はい」
ラスは、否定も肯定もしない。
「本来は、王自身の覚醒によって内側から破られる封印です」
「だが、王は目覚めない」
「ええ」
だから。
「外から、封印を破る必要がある。茅輪は、血を求めます」
オルフェンは、視線を伏せた。
そして、低く笑った。
「同族の、血か」
ラスは、頷く。
「ええ。しかも、大量の」
「王は庶出だ。父親は先王だから王統の血脈ではあるが…お母君は…」
オルフェンは、ゆっくりと顔を上げた。
「鮫人族の生き残りだった」
今はもはや口にすることさえはばかられる、王家による鮫人族の大虐殺。まだ王や軍師が生まれる前の、昔話だ。
「茅輪は、王統の封呪の糸が何重にも編みこまれています。それに対抗し得る血である必要があります」
「人魚の血か」
「…鮫人族の生き残りを見つけるのは…もはや、絶望的でしょう」
オルフェンは額にてのひらを当てる。
万策尽きた。
が、ふと、思い当たる。
「ラス」
「はい」
「王と血杯を交わした」
ラスの瞳が、わずかに揺れた。
「王の血を飲み、王もまた、わたしの血を飲んだ」
「それは…」
「わたしは同族ではないが…王と血を交わしあった。…捧げる血は、わたしでも代わりがきくか」
沈黙。
ラスは、すぐには否定しなかった。それが、すべてを物語っている。
オルフェンが、問いかける。
「成功率は?」
「——五分」
「十分だ」
即答だった。
「しかし、あなたは死にます」
「構わない」
迷いはない。
ラスは、白い瞳を細めた。
「目覚めた王が、”もとどおりの王”ではないかもしれないとしても?」
警告だった。
「ラス」
ふ、とオルフェンは笑う。何かあきらめたような、観念したような笑みだった。
「おそらく影妃は、王と離れても生きていける女だろう。王を愛しながら、あの才知あふれる商才と用意周到な胆力で、世界を切り開いていける女だ。だが」
軍師はあえて、言葉を、いったん切った。
「わたしには無理だ。どんな王であったとしても、王の不在の世界にわたしの居場所はない」
ラスが、黙る。
軍師は踵を返す。
氷室へ向かう足取りは、迷いがなかった。
◇ ◇ ◇
氷室の前。
巨大な茅輪は、地に伏せる獣の骨のように、静かにそこにあった。
編み込まれた茅は、すでに冬至の気を吸い、冷たく、重い。
オルフェンは、その前に立つ。
剣を抜く音は、ほとんど響かなかった。
王の背を、何度見送っただろう。
戦場へ。
玉座へ。
そして――眠りへ。
いつも、自分は一歩後ろにいた。
(王は、いつも先に行く。なら、道を整えるのが、わたしの役目だ)
剣を、胸元に当てる。
心臓の位置は、正確に把握している。
(血杯を交わした)
(同じ血を、呑んだ)
幼い頃から、すでにともにあった。友であり、主であり、自分の生きる意味そのものだ。
(ならば)
(この血も、王のものだ)
茅輪が、かすかに鳴った。
風ではない。
音でもない。
血を待つ気配。
「……起きろ、ゼクス」
少年だった頃と同じように、オルフェンは小さく、呟く。
「目覚めて、全部ひっくり返せ」
剣に、力を込める。
迷いはない。
恐怖もない。
「——陛下」
一瞬。
刃が、胸を貫いた。
鈍い衝撃。
熱。
それから、急速に奪われていく感覚。
血が、溢れ出す。
茅輪に触れた瞬間、それは“吸われた”。
滴るのではない。 流れるのでもない。絡め取られる。
茅が、わずかに軋む。
編み目が、赤く染まり、封印が、低く唸った。
(……効いているな)
視界が、揺れる。
膝が、崩れた。
それでも、剣から手は離さない。
(足りないなら、全部くれてやる)
茅輪が、さらに強く鳴る。
封印が、血を噛む。
——そのとき。
「オルフェン!!」
遠くで、声がした。
聞き慣れた声だ。
「バカ野郎!!」
ジンだ。
「やめろ!!」
別の、低い声。
ツヴァイ。
足音が、迫る。
視界が、白く滲む。
意識が、 静かに、途切れた。
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