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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第28話 水牢の影妃

 水は、冷たい。

 どれほどの時間そこにいたのか、もう分からない。

 灯りも、音も、祈りの声すら届かない。


 ここは、水の中だ。


 手首を拘束する鎖は、重い。

 鉄は、容赦がない。

 手首に絡む冷たさが、骨に染み、脚に絡む水が、力を奪っていく。

 ——それでも。

 レイシアは、抵抗しなかった。

 おそらく、逃げようと思えば、逃げられた。

 水路の構造も、抜け道も、見張りの癖も、交代の間も——すべて、知っている。

 王は、逃がそうとしてくれていた。

「処刑」という名の、救済を。

 その裏で、この国から消える道を。

 それを、拒んだのは、自分だ。

 冬至節の夜、王と神脈は断絶する。

 そうやって世界は<更新>される。

 王の魔力は封じられ、眠りのあいだ、王はただの人になる。

 そのとき、行き場を失った神脈を受け止める〈器〉が、必要になる。

 それが——影妃の役目だった。

 王の眠りを完全なものにするために。

 王が途中で目覚めぬように。

 恐れも、焦りも、誰かを失ったという感覚すら、抱かぬように。

 もし、自分が逃げたら。

 神脈は揺れ、王の眠りを妨げてしまう。

 ——自分が、“王を引き戻す存在”になってしまう。


 それだけは、してはいけなかった。

 王が、何も感じず、何も失わず、ただ、眠りに沈めるように。

 王を置いて、逃げられるわけがなかった。

 王のために、最後まで、器としての役割を果たしたかった。

 たとえ自分が、ここで、息絶えてしまうとしても。

(……ごめんなさい)

 必ず、生き延びろ、と、言ってくれた。

 その約束を、守れないかもしれないと、今さらながら思う。


 ——でも。


 最後の夜が、選んだ夜であって、よかった。

 あれが、与えられたものではなく、自分で選び取った時間だったことが、唯一の、救いだった。

 水が、肩まで上がる。

 呼吸が、短くなる。

 思考は、ゆっくりと削られていく。

 痛み。

 寒さ。

 孤独。

 それらすべてが、王の眠りを妨げぬための代価だと、彼女は知っていた。

(……どうか)

 祈りは、声にならない。

 ただ、胸の奥で、ひとつの名前を抱きしめる。


 ゼクス様。


 それだけで、意識は、遠のいていった。


 ◇ ◇ ◇


 水は、嫌いだ。


 音が消える。

 距離も、数も、気配も――すべてを曖昧にする。

 ツヴァイは、地下水路の分岐点に立っていた。

 石壁に背を預け、ただ耳を澄ます。

 滴る水音。

 一定の拍動。

 遠くで、鎖がわずかに擦れる音。

 ――水牢は、あちらだ。

「……来たな」

 気配が、三つ。

 いや、四。

 遅い。

 足取りが重い。

 装備が多すぎる。

 王の名を盾にした、元老院の犬どもだ。

 ツヴァイは一歩、前に出た。

「ここから先は、通さない」

 返事はない。

 あるのは、剣を抜く音と、殺意だけだ。

 ツヴァイは、弓を引き絞る。

 呼吸は、浅く。

 重心は、足の母指球。

 放つ。

 矢は、闇に溶け、音もなく、命を断つ。

 次。

 次。

(……数が合わない)

 ツヴァイは、即座に理解した。

 ジンが、先にいる。

「……行け」

 誰にともなく、呟く。

 自分は、ここでいい。

 王宮外縁。

 水路。

 通路。

 すべての“入口”を塞ぐのが、自分の役目。

 ツヴァイは、わざと派手に踏み込む。

 剣をぶつけ、石壁を鳴らし、血を流す。

「ここだ」

 囮になるために。

 敵の意識を、すべてこちらに向けるために。

 その背で、――小さな影が、水を裂いた。

 水面が、沈んだ。

(行ったな)

 ジンだ。

(……間に合ってくれ)

 ジンは、いつだって、一番奥にいる者を、確実に殺す。

 そして王が一番に望むことを見抜いて笑っている。


 ツヴァイは、次の弓を取った。


 ◇ ◇ ◇


 水は、冷たい。

 嫌いじゃない。

 だが、ここは――腐っている。


 血と、鉄と、人間の恐怖が、溶けている。


 ジンは、音を殺して進む。

 足の裏で、水の深さを読む。

 壁の温度。

 流れの速さ。

 残った匂い。

(……いる)

 遠い。

 だが、間違えない。

 この匂いは――影妃の気配。


 ジンは、水に潜った。


 泡を立てない。

 肺を使わない。

 背骨をしならせ、

 獣のように、細く、速く。

 途中で、二人。

 鎧。

 剣。

 油の匂い。

(じゃま)

 水中から、足首を掴む。

 引く。

 沈む。

 骨の鳴る音が、短く響いた。

 もう一人は、気づく前に終わった。

 首の後ろ。

(……つまらない)


 ジンは、再び進む。


 扉がある。

 鉄。

 古い。

 錆びている。

 扉が、わずかに開く。

 中は――暗い。

 水が、胸まである。

 天井は低い。

 光はない。


 そして。

(……あ)

 そこに、いた。

 女は、鎖につながれている。

 白い衣は、重く濡れ、髪は、顔に張りつき、肌は、青白い。


 匂いは――弱っている。

 でも、まだ、生きている。


(……きれい)

 それが、最初に浮かんだ。

 血の匂いでもない。

 恐怖でもない。

 静かな匂い。

 ジンは、水を分けて近づく。

 鎖に、触れる。

 冷たい。

 強い。

 水に沈んだ、杭に、刃を入れる。

 音は、ひとつ。

 かちり。

 鎖が、緩む。


 女の身体が、わずかに傾く。

 その瞬間。


「……っ」


 声。

 小さい。

 かすれている。

 だが、確かに、生きている声。

 ジンは、反射的に、女を支えた。

「だいじょうぶ」

 言葉は、うまく出ない。

 でも、触れれば、伝わる。

 ジンは、女を抱き上げる。


 そのとき――女の指が、ほんの少し、動いた。

「…だ、れ…?」

「あんたの仔猫だよ」

「ミク…?」

「ミクシィじゃなくて、ジン」

 レイシアの指が、少年の腕を、掴もうとして――力尽きて、落ちる。


 胸の奥で、何かが、ざらりと鳴った。

 怒りではない。

 殺意でもない。

 守る、という感覚。

 それは、王のそばで覚えたもの。

 ツヴァイの背中で学んだもの。


 ジンは、女を抱えたまま、水路の奥を見る。

 ツヴァイが、まだ、戦っている。

 なら。

 終わらせるのは、自分だ。

 ジンは、闇に戻る。

 影妃を、背中に抱えたまま。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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