第27話 拉致
白い光が、歩いていた。
雪ではない。
光でもない。
神殿の中央を進むのは、白い髪、白い瞳、透けるような肌を持つ青年——ラスエルだった。
年齢は測れない。
若いようでもあり、何百年も前からそこに在るようでもある。
白装束が、床を擦らない。
裾が揺れる前に、動きが止まる。
それは「歩く」ではなく、定められた位置へ、正確に身体を移す動作だった。
一歩。
間。
半歩。
呼吸は音を立てない。
吸うのではなく、空気が身体に収まる。
吐くのではなく、身体から世界が離れていく。
神官たちは、誰ひとり瞬きをしない。
魅入られたように、祭主ノアの代行者から目が離せない。
ラスの動きには、装飾がない。
祈りもない。
感情もない。
あるのは、何百年も継承されてきた「型」だけ。
古の祭祀の、完璧な再現だ。
文字に残らない儀。
失われたはずの歩法。
それを、ラスは正確に“なぞって”いた。
角度は、一度の狂いもない。
歩数は、誤差なく七。
最後の位置で、白い瞳が、何も映さない虚空を見る。
——その瞬間。
神殿の空気が、ぴたりと止まった。
神が降りたのではない。
神に近づくための距離が、消えただけ。
ただ、世界が神に触れられる形を、完成させる。
◇ ◇ ◇
影妃が消えた。
ツヴァイからそう報告を受けたのは、つい数刻前。
ジンがオルフェンの手元を見つめている。
静まり返った執務室で、軍師は一枚の地図を広げていた。
王宮全域。
回廊、地下、礼拝堂、水路。
——だが、視線はそこにない。
軍師が見ているのは、“使われていない空白”だった。
「……違うな」
呟き、別の書類を引き寄せる。
「早く!」
ジンが急かす。
「黙ってろ」
ツヴァイが諫める。
オルフェンの思考が、ある1点にむかって集中しはじめる。
冬至節当夜の記録。
警備の配置。
巡回の間隔。
封印の更新時刻。
そして——移動のない場所。
影妃の離宮から、人が消えた。
争った形跡はない。
扉は壊されていない。
血もない。
完璧すぎる。
(衝動的な誘拐じゃない)
オルフェンは、指先で机を叩いた。
「……儀礼だ」
そう結論づけるまでに、彼はすでに三つの可能性を捨てている。
刺客による拉致 ではない。 乱雑すぎる
元老院の即時拘束 ではない。それには 公式手続きが要る
神殿預かりではない。そうすると 記録が残るはずだ。
残るのは、一つ。
「“罪人としてではなく、器として扱う場所”」
彼は、地図を裏返した。
王宮の地下。
最も古い地層が剥き出しで保存されている場所。
水脈と接続された、処刑と祈祷のためだけに存在する空間。
水牢。
「……あそこか」
だが、確証が要る。
オルフェンは、別の書類を開く。
井戸の水量記録。
排水の流れ。
冬至節の夜。
不自然な増水が、一箇所だけある。
水を“使った”形跡。
(影妃は、血を流していない)
つまり、生かされたまま、沈められた。
「……水は、痛みを長引かせる」
独白が、低く落ちる。
叫べない。
暴れれば、溺れる。
魂を折るには、最も効率のいい方法だ。
「元老院らしい」
皮肉とも怒りともつかない声。
だが、オルフェンの思考は止まらない。
さらに、もう一段。
「なぜ、今?」
冬至節。
王は眠っている。
魔力は封じられている。
——だからだ。
王が目覚める前に、影妃を“象徴として”消す。
だが、殺さない。
神脈の器として、使い潰す。
これは暗殺ではない。
王権そのものへの攻撃だ。
「……」
軍師は、ゆっくりと目を閉じた。
ここで、感情を入れれば負ける。
(影妃が抵抗した形跡が、ない)
逃げる気なら、最初から姿を消している。
抵抗する気なら、商団を動かしている。
だが——捕まる道を選んだ。
「……王のため、か」
一度だけ、拳を握る。
だが、すぐにほどいた。
立ち上がり、地図を畳む。
もう、迷いはない。
「水路を封鎖しろ。地下第三層、旧処刑区画を最優先で当たれ」
ツヴァイが動く。
ジンが窓から飛び降りる。
軍師は、伝令に、淡々と指示を出す。
「だが——」
一拍。
「誰にも知らせるな。特に、元老院には」
それは反逆でも、独断でもない。
王が不在の夜に、王の代わりに判断する者の顔だった。
◇ ◇ ◇
水面が、まだ揺れている。
さきほど射抜いた矢が、
水に落ちた血をゆっくりと押し広げていた。
ツヴァイは、足を止めない。
弓は構えない。
肩も、視線も、揺れない。
「……もう一人」
一拍。
「いや、二人か」
返事はない。
だが、その直後――水音が、一つ、消えた。
それは「立つ音」ではない。「沈む音」だった。
影が、水の中へ引きずり込まれる。
もがく間もなく、水面が何事もなかったかのように閉じる。
ツヴァイは、弓を引かない。
すでに処理されたと、分かっている。
壁際から、ぬるり、と這い上がる小さな影。
人ではない。
濡れた赤毛。
尖った爪。
幼さの残る体躯。
おそろしいほど冴えた、翡翠色の大きな瞳。
——ジン。
彼の足元には、すでに二つ、水に沈められた影がある。
喉。
首の後ろ。
致命点だけ。
無駄な力は、一切使っていない。
「おそい」
短く、子どもの声。
ツヴァイは、わずかに口角を上げた。
「静かすぎると思った」
ジンは、鼻を鳴らす。
「においがした」
水に溶けた血の匂い。
油。
鉄。
祈りの残り香。
「王を殺すやつらの」
言葉は拙い。
だが、判断は正確だった。
その瞬間。
水面の向こうで、
かすかな振動。
次の敵だ。
ツヴァイは、弓を引く。
だが、放たない。
距離を測る。
水路の反響。
音の重さ。
「……左奥」
言い終わる前に、
ジンは水に溶けた。
泡一つ、上がらない。
獣人族の身体は、水中で音を殺す。
数呼吸。
——骨の鳴る音。
短く、乾いた。
それで終わりだ。
ジンが、水面から浮かび上がる。
手には、短く折れた刃。
「三人」
淡々と報告する。
ツヴァイは、頷いた。
「次は?」
ジンは、目を細める。
獣のそれだ。
「……下」
水牢の方角。
ツヴァイは、即座に判断する。
「先に行け」
ジンは、にやりと笑った。
子どもの笑みではない。
狩りの前の顔だ。
「ころすのは、ぜんぶ?」
「ああ」
一瞬のためらいもなく、ツヴァイは答えた。
「影妃殿下に触れた者は、全員だ。あの方は…王の女だ」
ジンの尻尾が、水の中で、楽しそうに揺れた。
「わかった」
次の瞬間、少年の姿は、闇に溶ける。
ツヴァイは、その背を一瞬だけ見送り、弓を握り直した。
「……やはり」
低く、呟く。
「王の傍に置いておいて、正解だ」
水路の闇は、さらに深くなる。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
もし少しでも続きを気にしていただたなら、
ブックマークしていただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




