第26話 ツヴァイの弓
冬至節の夜は、音が死ぬ。
雪は降っていない。
だが、空気は重く、闇は粘り気を帯びて王宮の外縁に絡みついていた。
王は、禊ぎの眠りに入っている。
魔力は封じられ、神脈は断たれ、王権は——今夜だけ、沈黙する。
だからこそ。
刺客は、この夜を選んだ。
わずかな気配が、闇の縁で揺れた。
ツヴァイは、歩みを止めない。
王宮外縁の土の上に、
彼は静かに、一本、弓を立てた。
次に、もう一本。
三本目、四本目。
…ぜんぶで、十本。
すべて、同じ型の戦弓。
すべて、同じ張り。
すべて、同じ高さで地に立てられている。
円ではない。
だが、これは結界だ。
王の眠る中枢を中心に、
人の歩幅で刻まれた、十の方位。
矢は、すでに番えてある。
刺客が動いた。
空気が、かすかに裂ける。
ツヴァイは振り向かない。
最も近い弓を、左手で抜き取る。
右肩は上げない。
肘も開かない。
背骨だけが、わずかに回る。
重心は、踵ではなく、母趾の付け根。
地面を踏みしめるのではなく、預ける。
弓を引くのは腕ではない。
肩甲骨。
背中の奥。
肋骨の内側。
呼吸は、止めない。
吸い切る前に、放つ。
——放つ、というより、ほどく。
矢は、音を立てなかった。
闇の中で、何かが弾ける。
次。
足音。
別の弓を取る。
矢。
喉。
沈黙。
弓を捨てる。
次を取る。
十本の弓は、彼の周囲で順に死に、
そのたびに、影が一つ、地に崩れた。
叫びはない。
血の匂いすら、夜に溶ける。
十本目を取ったとき、
最後の刺客が、屋根の上で息を呑んだ。
距離はある。
角度も悪い。
だが、問題ではない。
ツヴァイは、呼吸を整えない。
視線だけで、距離と落下を測る。
風はない。
闇は、重い。
——十分だ。
矢は、闇を切り裂き、刺客の眉間に、正確に吸い込まれた。
落下音。
それで終わりだった。
ツヴァイは、弓を地に戻す。
十本すべて、役目を終えた。
彼は初めて、王の眠る方角を見る。
「——陛下」
小さく、名を呼ぶ。
王が目覚めるまで、この夜を守るのは、自分だ。
影妃が奪われたことを、彼は、まだ知らない。
——冬至節の夜は、これから、さらに深くなる。
◇ ◇ ◇
王の眠る氷室は、地下神殿のさらに下、岩盤をくり抜いた空洞にあった。
灯は最小限。
光は、もはや“照らす”ためではなく、位置を示すためだけに置かれている。
空気は冷たい。
だが、それは寒さではない。
——力を動かさぬための温度だ。
神官たちが、無言で動く。
誰も祈りの言葉を口にしない。
ここで声を出すことは、神脈に余計な波を立てる行為だからだ。
床に置かれているのは、巨大な茅輪。
人の背丈をゆうに超える径だ。
乾いた茅を幾重にも編み込み、一本一本に、封呪の刻印糸が通されている。
茅輪は「飾り」ではない。
これは、境界そのものだ。
この封印は、剣では壊れない。呪術では崩れない。時間でも摩耗しない。
寸分の狂いもなく、氷室の入口を覆う位置に、茅輪を降ろさなければならない。
氷室の内と外が、同じ空間でありながら、別の位相に分断される。
茅輪は、もはや“輪”ではない。
それは、王を守る檻であり、同時に、世界から王を切り離す楔だった。
茅輪の前で、一人、膝をつく者がいた。
ラスだ。
彼は目を閉じ、地脈の音に耳を澄ます。
低く、深く、巨大な鼓動のような脈。
——王は、眠りに落ちた。
茅輪が、完全に接地した。
その瞬間。
——空気が、沈んだ。
目に見える変化はない。
だが、神脈は、たしかに閉じた。
ラスは、わずかに息を詰る。
(……おかしい)
音ではない。
振動でもない。
地脈が、王を中心に流れることをやめた。
氷室の奥。
王の眠る場所が、世界の循環から、静かに外れる。
それは封印であり、同時に——切断だった。
ラスは、無意識に視線を巡らせる。
本来、この冬至節の祭祀を執り行うのは、最高位神官であるノアの役目だった。
歩数も。
角度も。
呼吸も。
すべてを知り、すべてを誤らず、神脈を扱える唯一の刻印師。
(……あの方は)
ラスは、目を閉じる。
地脈に、耳を澄ます。
王の方向は、今や静まり返っている。
だが——
別の場所で、脈が、集まり始めていた。
遠い。
だが、確かだ。
人の身体を通るには、あまりにも強すぎる流れ。
(ノア様……)
ラスには、わかってしまう。
ノアが、神脈を“刻印”で受け止めようとしていること。
そして、その流れが、さらに別の器へ向かっていること。
溜めるだけの場所。循環しない花紋。
——クリシュナ。
(移ったのか。それとも…<盗まれた>)
王と影妃が担ってきた循環は、すでに、切断されている。
(…これから、どうなる)
ラスは、静かに立ち上がる。
自分が取るべき立場を、理解していた。
裁かない。
止めない。
肯定もしない。
ただ、
冬至節の儀を完遂するのみ。
ラスは、神官たちに告げる。
声は、揺れない。
「これより、冬至節の祭祀を行う」
その背で、茅輪は、沈黙したまま、世界を遮断していた。
◇ ◇ ◇
最後の刺客が落ちてから、
ツヴァイは、しばらくその場を動かなかった。
風が戻る。
闇が、元の形を取り戻す。
王宮は、何事もなかったかのように静まり返っていた。
——静かすぎる。
ツヴァイは、弓を回収しながら、
ごく自然に周囲を確認する。
警備の配置。
巡回の間隔。
火の位置。
すべて、異常はない。
だからこそ。
彼は、視線を動かした。
王の私室。
問題なし。
次に、
影妃の離宮。
——灯りが、ない。
本来、消えるはずのない灯だ。
冬至節の夜。
王が眠る間、影妃の離宮は、灯を落とさない。
ツヴァイは、音を立てず足早に離宮に向かう。
途中で、女官を一人見つける。影妃の侍女だ。顔色が蒼白だ。
「影妃殿下は?」
侍女は、泣きそうな顔で、言葉に詰まる。
「……先刻、お戻りになると……」
「いつだ」
「……日が沈んでから……」
それ以上、聞く必要はなかった。
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