第24話 逸脱の朝
夜明け前、城は凍りつくように冷え込んでいた。
廊下の石床は凍り、吐く息が、白く浮く。
それなのに。
王の寝室の前で、クリシュナの筆頭侍女リゼルは、足を止めた。
リゼルは高位貴族の娘であり、かつては、王妃候補のひとりとして名を連ねたこともある。
だが、花紋を持たぬ血では、クリシュナに敵うはずもなく、候補からはずされ、皇女の侍女となった。
それでも――せめて王の側に、と。
側室という形でもいいと、そう信じて、ここまで来た。
それ、なのに。
扉脇の高窓が、白く、結露していた。
水滴が、硝子を伝って、落ちる。
ぽたり。
音もなく、だが、はっきりと。
――おかしい。
扉の向こうから、
微かに、湿った空気が流れてくる。
香ではない。
火の匂いでもない。
もっと、生々しいもの。
水と、体温の混じった気配。
冬至節前夜。
最も冷える刻。
王の寝室は、夜半には必ず火を落とす。
禊ぎのため、余分な熱を残さぬのが、掟だ。
それなのに――硝子は曇り、内側に、水滴が無数に生まれている。
結露は、長く、繰り返し、熱が留まり続けた証だ。
王が、夜の間中、誰かと、熱を交換し続けていたのだ。
女と。
リゼルの喉が、ひくりと鳴る。
彼女は、ほんのわずか、扉を押し開けた。
音は、立てなかった。
視界に入ったのは、寝台の縁。
白い布が、床に落ちている。
祭祀用の装束だと、ひと目で分かった。
そして――
王は、寝台からわずかに身を起こし、座っていた。
背を少し丸め、片肘を寝台に預けて。
その腕の内に、影妃が、いた。
王の腕は、抱くというよりも、包むように回されていた。
眠りと覚醒のあわいで、女の体温だけを確かめるように。
影妃の黒髪が、王の肩口に流れ落ちている。蝋のように白い背中の、赤い花の花紋。刻まれた、ゼフィールの。
一一偽物の、くせに。
リゼルの胸の奥底に、どす黒い感情が渦巻く。
女の頬は、王の胸に寄せられ、顔は見えない。
だが――
彼女の鎖骨に、淡い痕があった。
刻印ではない。
傷でもない。
ただ、触れられたことを否定できない、柔らかな色。
王は、何も言わない。
影妃も、声を出さない。
その沈黙が、すべてを語っていた。
(偽物の、くせに!)
――禊の期間だ。
――冬至節前夜だ。
――神に身を捧げるべき影妃が。
理屈が、次々に浮かぶ。
だが、それより先に、感情が来た。
熱。
焦り。
そして、胸の奥で、黒く粘つくもの。
(……なぜあの女が選ばれるのか)
その事実だけが、刃のように突き刺さる。
ゼクスの指が、無意識にレイシアの背に回る。
守るような仕草だった。
その瞬間、リゼルは理解した。
これは、過ちではない。
慰めでもない。
決断だ。
だからこそ――許せなかった。
扉は、音もなく閉じられる。
廊下に戻ったリゼルの足取りは、静かだった。
だが、その胸には、すでに言葉が揃っていた。
「禊を破った」
「神を軽んじた」
「影妃は、王を惑わせた」
どれも、事実だ。
祭祀の夜に。
禊ぎの最中に。
影妃は、地下神殿に籠もるはずだった。
王もまた、清めの眠りに入る前夜。
誰にも触れてはならない。
なのに。
リゼルの胸に、言葉が形を持って立ち上がる。
――不敬。
神に捧げられるべき夜に、
神脈を断つべき刻に、
王と影妃は、あろうことか互いの体を貪り合った。
「元老院へ、報告しなくては」
神事を軽んじて王を誘惑した影妃も。
冬至節の前夜に女に誑かされ、神事を穢した王も。
どちらも、消えてなくなってしまえばいい。
リゼルは、背を向けた。
廊下の冷気が、肌に突き刺さる。
だが、胸の奥は、奇妙なほど、熱を帯びていた。
嫉妬か。
憎悪か。
あるいは――自分が、選ばれなかったという事実への、どうしようもない怒りか。
(許されるはずがない)
(影妃は、神を裏切った)
(王もまた、罪を犯した)
夜明けの冷気の中、リゼルは歩き出す。
その背中に、もう迷いはなかった。
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