第23話 禊ぎ
冬至節を前に、王宮の空気は、張りつめていた。
それは喧騒ではない。
むしろ、音が減っていくような静けさだった。
影妃の「禊」が、始まる。
湯殿には、白い湯気が満ちていた。
石で組まれた天井から雫が落ち、
低く張られた湯の表面を、静かに揺らす。
香は焚かれていない。
冬至節の禊ぎでは、香りは人の欲を呼ぶとして禁じられていた。
「――影妃様、湯浴みを」
女官の声は淡々としている。
ただ、古くから繰り返されてきた手順の確認だ。
レイシアは、黙って頷いた。
外套を脱ぐ。
装身具を外す。
指輪も、耳飾りも、髪紐も。
それらはすべて、影妃として与えられたものだった。
最後に残った薄衣を脱ぐと、背中に刻まれた花紋が、冷えた空気にさらされる。
(……冷たい)
刻印の輪郭が、花弁の一枚一枚が、神脈に沿って広がり、まるで生き物のように脈打っていた。
神官が視線を逸らす。
レイシアは、ゆっくりと湯に足を入れた。
足首。
ふくらはぎ。
膝。
湯は熱すぎず、温すぎず。
血の巡りを促す、計算された温度。
腰まで沈んだところで、小さく息を吐く。
(……これで、少しは)
痛みが、和らぐ。
刻印が刻まれて以来、完全に消えることのない疼き。
それが、湯の中では不思議と鈍くなる。
だが、楽になるほどに、別の感覚が浮かび上がってくる。
(……私は)
湯の底に沈む影を見つめながら、思う。
(いま、何者してここにいる?)
影妃か。
神脈の器か。
王のための楔か。
それとも――
(まだ、何者でもない私か)
湯気の向こうで、神殿の巫女達がが静かに祝詞を唱え始める。
水と血を分かつ言葉。
生と死の境をなぞる古語。
禊ぎ初日は、穢れを落とす日とされる。
それはつまり、「自分が何者であるか」を、いったん剥がす日でもあった。
湯の中で、レイシアは目を閉じる。
――レイシア、と、はじめて名前を呼んだ、王の声。
(……だめね)
冬至節の夜、王の眠りによって、一時的に神脈との接続が切れる。影妃はその晩、魔力を受け止めるための、完全な器とならなくてはならない。
そう自分に言い聞かせ、レイシアは深く息を吐いた。
湯気が、白い壁に溶けていく。
禊ぎは、まだ始まったばかりだった。
二日目。
沈黙と断食が課される。
声を出してはならない。
問いも、返答も、祈りの言葉すら禁じられている。
人としての意思を削ぎ落とし、神に捧げられる器へと近づくための時間だった。
用意された白装束は、驚くほど簡素である。
装飾はない。刺繍もない。
ただ、布としての機能だけが残されている。
袖を通すと、ひやりとした感触が肌を包む。
それは冷たさではなく、余計な熱を拒む感触だった。
髪を結ぶことは許されない。
櫛も使えない。
黒髪はそのまま背に流れ落ち、背中に刻まれた花紋の上を、静かになぞる。
(……わたしは、飾りではない)
そう、何度も言い聞かせてきた。
だが今日は、それすらも否定される。
装飾を外す。指輪も、耳飾りも。
影妃としての証は、すべて置いていく。
残るのは、祈りを通すための身体だけ。
食は断たれた。
水は与えられるが、それは潤すためではなく、内側を空にするためのものだった。
回廊を歩く。
白装束の裾が、石床を擦る音だけが、世界に残る。
足音は小さく、だが確かに響く。
視線を上げてはならない。
誰の顔も見てはならない。
琥珀色の瞳は伏せられ、世界は、白と灰の濃淡だけになる。
(……贄)
ふと、その言葉が浮かんだ。
神に捧げられるもの。
意思を持たず、抗わず、ただ差し出される存在。
否定する気持ちは、不思議と湧かなかった。
(そうあるべきなのだ)
白装束に包まれた身体。
流れる黒髪。
伏せた睫毛の影。
沈黙を湛えた琥珀色の瞳。
それらはすべて、神に捧げるための形だった。
言葉を断ち、食を断ち、人としての欲を断つ。
その代わりに、静けさと、空白を受け入れる。
夜。
石の寝台に横たわり、
天井の闇を見つめる。
眠りは浅い。
だが、夢も見ない。
(……あと、一日)
三日目が来れば、
地下神殿に降りる。
それが、冬至節の掟であり、影妃の役割だった。
胸の奥で、わずかな熱が、まだ消えずに残っていることに、レイシアは気づかないふりをする。
彼女は静かに、祈りの器になっていく。
◇ ◇ ◇
回廊の影で、ゼクスは立ち止まった。
白装束のレイシアが、静かに歩いていく。
明日、影妃は地下神殿へとくだる。
何も飾らず、何も重ねず、それでも、あまりに美しい。
——さらってしまいたい。
衝動が、喉元までせり上がる。
地下神殿になど、行かせたくない。
誰にも見せず、自分の腕の中に閉じ込めてしまいたい。
はじめて、自分から女に一夜を懇願した。
まさか自分が、こんなにも切実にたったひとりの女との夜を乞う日がこようとは、思ってもみなかった。
影妃は、王の寝室に来ようとはしない。
それは自制であり、拒絶であるのかもしれない。
(…明日が、最後かもしれない)
もう二度と、触れられないかもしれない。
懇願するより、強引に奪ってしまったほうがよかったのかもしれない。
(いや…そうではなく)
「おれは…」
思わず、呟く。
心が。あの女の心ごと、欲しいのだ。
三日目の朝は、音がなかった。
鐘も鳴らず、祈りの詠唱もない。
ただ、冷えきった空気だけが、肺に静かに入り込んでくる。
レイシアは目を覚まし、白装束のまま身を起こした。
身体は軽い。
軽すぎて、まるで中身が削がれてしまったようだった。
(……今日で、切り離される)
三日目。
地下神殿に籠り、冬至節が明けるまで祈り続ける日。
王の魔力と、一時的に断絶される。
それは、影妃としての役割の核心だった。
王は眠りに入る。
神脈は閉じられ、目覚めるまでのあいだ、国は「仮死」の状態になる。
その間、王の魔力が暴走しないよう、受け止め、逃がし、鎮めるのが――影妃。
(今年も……そのはずだった)
足を運ぶ。
地下へ続く回廊は、いつもより長く感じられた。
白装束の裾が、床をなぞる。
音は、相変わらず小さい。
祈りの作法は、すでに身体に染みついている。
歩幅。
視線の落とし方。
呼吸の数。
考えなくても、できる。
だからこそ――考えてしまう。
(……わたしは、器だ)
そう言い聞かせてきた。
何度も、何度も。
感情を持っていけない。
願ってはならない。
望んではならない。
神に仕える器に、「選択」は存在しない。
……それでも。
回廊の途中、レイシアの足は、ふと、止まった。
(……おかしい)
地下神殿へ向かう分岐は、この先で右に折れる。
身体は、その角度を覚えている。
一度も迷ったことはない。
だが、今日は――足が、動かない。
(なぜ……)
問いは、声にならない。
三日目の沈黙は、まだ解かれていない。
胸の奥に、わずかな熱が灯る。
二日目に押し殺したはずの、人としての温度。
名を呼ばれた声。
視線。
触れそうで、触れなかった距離。
地下神殿に入れば、そのすべては切り捨てられる。
祈りの器は、感情を持ってはならない。
(……神に、背く)
その言葉が、静かに胸に落ちた。
地下神殿へ行かないことは、掟に背くこと。
王の眠りの秩序を、乱す可能性があること。
(わかっている)
それでも。
白装束の中で、レイシアは、ゆっくりと息を吸った。
肺が、冷たい空気で満たされる。
足先が、わずかに向きを変える。
(……一度だけ)
たった一度だけ、影妃としてではなく、ひとりの女として、選びたい。
白装束が、かすかに揺れた。
レイシアは、静かに、歩き出した。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
神殿の最奥。
光の届かぬ石室。
ノアは、上衣を脱ぎ、刻印刀を手にしていた。
胸元に、冷たい刃を当てる。
迷いは、ない。
ラスに祭祀を託した瞬間から、
自分の役目は、ひとつに絞られていた。
——神脈を、受け取る。
王と影妃を、神脈から切り離す。
刃を走らせる。
血が、静かに流れ落ちた。
刻印は、花の形を取らない。
彼自身の身体に合わせた、歪な循環の紋。
魔力が、刻印師の胸に集まり始める。
◇ ◇ ◇
王の寝室。
暖炉の火が、低く燃えている。
ゼクスは、レイシア見た。
「……いいのか」
声は、低い。
「嫌ならやめても」
「いいえ」
「わたしは、あなたに、わたしを差し出したい」
一歩、近づく。
ゼクスは、目を閉じた。
喉が、かすかに鳴る。
本来、王としてなら、触れるべきではない。
冬至節前夜、最も慎まねばならぬ夜だ。
だが。
「……戻れなくなるかもしれない」
低く、告げる。
「それでも、いいか」
「はい」
迷いは、なかった。
ゼクスは、ゆっくりと彼女の手を取った。
冷たい指先。
白装束の感触。
王の寝室に、禊の気配が流れ込む。
それは破壊ではない。
選び取られた逸脱だった。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。
どこかで、刻印が刻まれ。
神脈が移り。
掟が、静かに歪み始める。
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