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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第21話 継承 

 神殿の最奥、石牢のような礼拝堂には、冷えた空気が満ちていた。

 壁に刻まれた古い紋様が、わずかに湿りを帯びている。

 ノアは、石床の中央に立つラスエルを前に、静かに息を整えた。

「見るのではない。感じろ」

 声は低く、だが揺るぎがない。

 ラスは小さく頷き、目を閉じた。

 その瞬間、ノアは気づく。

 ――閉じたはずのこの空間で、ラスの呼吸だけが、足裏を深く貫通して地脈と同調している。

「呼吸は、四拍で吸い、六拍で吐く。刻印を刻むときと同じだが――祭祀では、吐くほうを長く取る」

 言いながら、ノアは一歩、斜め前に出る。

 だが、その動きに、ラスは遅れなかった。

 むしろ、ほんのわずか、先を行く。

「……」

 ノアは、言葉を止めた。

 ラスの足裏が、石床に触れた瞬間。

 微かに、音が変わる。


 それは耳で聞くものではない。

 地脈が流れを変える、その“うねり”だ。

(――聴いている)

 ノアの背筋を、冷たいものが走った。

「歩数は七。必ず右から入る。角度は、神脈に対して三度だけ外す」

 わずかな誤差。

 だが、そのわずかが、神殿では生死を分ける。

 ラスは、迷わず踏み出した。

 三度、ではない。

 三度“弱”。

 それは理論ではない。

 地脈の呼吸に合わせた、調整だった。ラスエルには、ほとんど視力がない。

 …にもかかわらず、歩数は正確で、空間を把握する認知の力はずば抜けている。

 ノアは、息を呑んだ。声に出さずに、唸る。

 さすが……神殿の、白子アルビノ

 地脈の音から象位を導くことができる希少な子どもだった。

 それゆえ、元老院に利用され、神殿に閉じ込められて、神の傀儡として祭り上げられる予定の子どもだった。閉じ込められているラスエルを、「逃がしてあげてほしい」と頼んできたのは影妃だ。


「詠唱は声に出すな。音ではなく、位相で捧げる」

 ラスの喉が、かすかに鳴る。

 だが、声は出ない。

 代わりに、足元から、低く、澄んだ振動が返ってくる。

「……私に、務まりますか」

 問いは静かだった。

 だが、その奥に、恐れはない。

 ノアは、初めて視線を上げた。

「務まるかどうかではない」

 一拍。

「祭主は、お前だ」

 冷たい言葉だが、拒絶ではない。

「わたしは、冬至節の祭祀には、立てない」

 ラスは静かにノアを見た。見る、というのは正確ではないかもしれない。おそらくその瞳にはなにも映っていない。ただ、刻印師が持つ重低音のような「音」の波を感じるだけだ。

「だから、すべてを渡す」

 ノアは、低く続ける。

「歩みも、間も、拍も、責務の重さも」

 ゆっくりと、一連の動きを示す。

 足運び。呼吸。身体の傾き。

 それは祈りではなく、高度で複雑な術式の舞だった。

 ラスは、目を閉じたまま、それを“写し取る”。

 否。写し取るのではない。――自分の中で、再構成している。

「覚えろ」

 ノアは、わずかに声を落とす。

「これは神に捧げる舞ではない。…王を、生かすための工程だ」

 ラスは、深く頭を下げた。

 その額が床に触れた瞬間、

 地脈が、ひときわ静かに鳴った。


 ◇ ◇ ◇


 同じ頃、神殿の外庭では、神官たちが巨大な茅輪を編んでいた。

 乾いた茅が、規則正しく組まれていく。

 輪は、円ではない。

 わずかに歪み、傾き、完全には閉じない。

 それが意味を持つ。

「冬至節とは、王の力を一度、世界から切り離す儀である」

 年長の神官が、若い者に語る。

「王は眠りに入り、神脈との接続を断たれる」

「では……その間、国は?」

「影妃が、支える」

 神官の手は止まらない。

「影妃は、王の魔力と一時的に切断され、地下神殿で祈りを捧げる」


「王が目覚めるまで、神脈を乱さぬために」

 茅輪は、王の氷室の封印となる。

 眠り。断絶。覚醒。

 それは、王権の更新であり、国の呼吸でもあった。

「だから、茅輪は完全な円ではならない」

 神官は言う。

「閉じてしまえば、戻れぬ」

 編まれていく輪は、静かに冬の光を受けていた。


 ◇ ◇ ◇


 ラスが礼拝堂を去ったあとも、

 神殿の最奥には、まだ地脈の余韻が残っていた。


 低く、深く、心臓の鼓動よりも遅いリズムで、大地が息をしている。

 ノアは、ひとり、石床に立ち尽くしていた。

(——あれは)

 思い返す。歩数。角度。呼吸。

 自分が教えたはずのすべてを、ラスは、自分の身体で“更新”していた。

 理論ではなく、感覚で。信仰ではなく、構造として。

(祭主は、もう要らない)

 その結論は、安堵ではなく、むしろ、胸を締めつけた。

 ラスは、冬至節の祭祀を“完遂”できる。

 王を眠らせ、神脈を封じ、覚醒まで導くこともできるだろう。


 ——だが。


 ノアは、ゆっくりと、自分の胸に手を当てた。


 皮膚の下。肋骨の内側。刻印を入れれば、二度と戻らない場所。

(神脈を、誰が受ける)

 ラスではない。あれは、流れを聴く者だ。受け止める器ではない。


 クリシュナでもない。開かない花紋は、溜めることはできても、

 代価を引き受ける痛みまでは、引き取れない。


(……結局)

 残るのは、ひとりだけだった。

 ノアは、目を閉じる。

 脳裏に浮かぶのは、

 花を刻まれた背中。

 血に濡れながら、声を上げなかった少女。

 レイシア。

(あのとき、刻んだのは——)

 運命だ。逃げ場のない、神の都合だ。

 だが、今度は違う。

 誰にも命じられていない。神にも、王にも。

 選んだのは、自分だ。

「……いいだろう」

 誰に向けた言葉でもない。

 祈りでも、誓いでもない。

 ただの、確認だった。


 王を生かすため。

 影妃を解放するため。

 神脈を“壊さずに移す”ため。


 その代価を、自分の身体で引き受ける。

 ノアは、ゆっくりと息を吐いた。

(刻むのは、花ではない)

 胸に描くのは、循環の“終点”。

 流れが行き場を失ったとき、すべてが、ここに戻るように。


 刻印刀の冷たい感触を、想像する。


 痛みも、恐怖も、すでに計算に入っていた。

(——ラスエル)


 あの天才は、神殿の未来だ。世界を回す側に立つ者。


 ならば、自分は。

(過去と、罪を、引き受ける)

 ノアは、目を開いた。


 ◇ ◇ ◇


 王は音もなく離宮の窓から影妃の部屋に忍び込む。

 娼館の朝帰りの日以降、王は毎晩のように忍んで離宮にやってくる。以前のように、というより、以前より視線が穏やかで、そして、ずっと親密だ。

 熱をはかろうとしてか、影妃の額に触れる。髪に触れる。まるで距離感というものが喪失している。

(…困ってしまうわ)

「…また…」

「熱は、下がったみたいだな」

「…わたしに構うのはやめてください」

「そうか?それにしては、この間は夜中おれの名前を呼んでいたぞ」

「…陛下。熱に浮かされた影妃の妄言など忘れてください」

(ああ…もう。失敗した)


 娼館から王宮に戻った朝、薬湯の副作用で不調に陥り、なにかしら会話をした後で倒れてしまったところまでは覚えている。目覚めるとそこは王の寝室で、驚いて離宮に戻ろうとしたレイシアを、送ろう、とゼクスは軽々と抱き上げたのだ。抵抗するレイシアに、王はからかうようにさらりと言ってのけた。

 …みせつけてやればいい。王と影妃は朝の情事を楽しんだ後だと。




 もはや長年隠してきた気持ちまでも見透かされているようで、レイシアは内心落ち着かない。が、無理に、心を立て直す。

「陛下。禊ぎの前です。これ以上、こちらへはお控えください」

 静かな声だったが、拒絶の線ははっきりしていた。

 冬至節を迎えるにあたり、影妃には三日間の禊ぎが課される。

 誰とも接触せず、食を減らし、装身具をすべて外し、身体と神脈の結びつきを一度、極限まで薄める。

 そのために、影妃は地下神殿に籠もる。

 光の入らぬ石の空間。地上よりも低く保たれた温度。

 外界の刺激を断ち、王の魔力と一時的に切り離されるための場所。

 ——祈りのため、という建前はある。

 だが本質は違う。

 冬至節とは、王が眠りに入り、神脈が閉じ、その断絶を安全にやり過ごすための調整期間だ。

 影妃の身体は、その“緩衝材”として使われる。

 だからこそ、禊ぎが必要だった。

「禊ぎ、か」

 ゼクスは低く呟いた。

「地下神殿は……光が入らないな。温度も、上がらない」

 その先を、言葉にしなかった。

 ——身体に、こたえないか。

 そんな問いを、口に出さぬまま、視線だけで伝えてくる。

(こんなふうに、人を案じる方だっただろうか)

 レイシアは、一瞬だけ、目を伏せた。

「例年のならわしですから」

 穏やかに、だが迷いなく。

「……慣れています」


 それは、強がりではなかった。

 諦めでもない。自分の役割を、正確に理解した者の声音だった。

 禊ぎとは、清めではない。

 耐えるための準備だ。

 王が眠り、神が沈黙し、世界が最も不安定になる数日を、無事に越えるための。

 ゼクスは、いったん口をつぐむ

 引き止めることも、命じることも、できない。

 この禊ぎは、王権を維持する者にとって、侵してはならない領域だった。

 が。

 ゼクスは、静かに、言った。

「今年は…」

 少しだけ間をおいて、レイシアの瞳を見つめながら。

「地下ではなく、おれの寝室に来てくれないか」

 唐突な言葉に、レイシアは絶句する。

 ゼクスの目の奥が穏やかに笑う。先に目をそらしたのは、レイシアだった。

「からかっておいでですか」

「本気だ」


 す、と、ゼクスは1枚の羊皮紙を差し出した。

「お前を処刑する書面だ」

 レイシアの目が見開かれる。

「冬至節が済んだ後だ」

「陛下…」

「逃げ道は、確保しているな?」

 もし、自分が目覚めなくとも。

「この処刑は、必ず、執行される」

「…クリシュナ様を、正妃に?」

「なに?」

「わたしを逃がしてくださるということは、わたしはもはや陛下にとって不要な女なのですか。神脈の器は、クリシュナ様が?」

 思いもよらない言葉が飛び出したことに、驚いたのは、むしろレイシア自身だった。

「何を言ってる。アレは、そういう女ではない…」

「あなたと同じ瞳をもった美しい方です」

「アレは、だから、ちがう…言ってみれば<兄>のようなもので…」

「兄?なにを言ってるんです」

「オルフェンとおれは、アレの気まぐれと性悪さにさんざん振り回された幼少期を過ごして…ともかく、正妃の器というより、アレは…王の器に近い」

「…あなたの隣に立つのにふさわしい方なのでは」

「レイシア」

 影妃は、一瞬、言葉を失う。名前を呼ばれたのは、はじめてではないか。

「レイシア」

 ゼクスの手が、影妃の頬に触れる。

「おれの話を、聞いていたか?クリシュナなど、女として眼中にない。アレも、おれを男としてなど見ていない。せいぜい、盤上の駒くらいが妥当なところだ。今、おれは、お前とすごす一夜を乞うているんだぞ」

「…乞う?」

「嫌なら、無理強いはしない。ただ…考えてくれ」

 最後に、選ぶ夜になるかもしれない。

 氷室の眠りから、目覚めないかもしれない、とゼクスは思う。

 無事に逃げおおせても、もう二度と会えないかもしれない、と、レイシアは思う。


「…戻る」

 これ以上影妃のそばにいれば、自制が効かなくなりそうだった。

「陛下」

「名前を」

「え?」

「名前を呼んでくれ」

「…不敬です」

「この間は、夜中、おれの名前を呼んでいたくせに」

「ですからそれは…」

 最後まで、言葉は続かなかった。

 ゼクスの唇がレイシアの唇にかすかに触れた。ただ言葉を封じ込めるためだけの、やさしさに満ちた口づけだった。

 琥珀色の瞳が、驚いたように、ゼクスを見つめる。互いの息遣いが聞こえるほどの至近距離で、ゼクスは言う。

「…協力者は、いるな?信頼できる者を選べ」

 それから、と付け加えるように。

「…仔猫を、連れて行け」

「え?ミクシイ?」

「…ジン、だ。実は、あれはおれが拾って育てた。なついているようだから、しばし貸してやろう。手のかかる猫だが、役に立つ」

 ゼクスの目から、笑みが消える。

「必ず、生き延びろ」


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

もし少しでも続きを気にしていただたなら、

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