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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第20話 交渉成立

 神殿の回廊は、冬の匂いがした。

 灯りは落とされ、壁の石は冷たく、足音すら吸い込む。

 ゼクスは、扉の前で立ち止まり、迷いなく言った。

「ノア」

 返事はない。だが、気配が動く。

 刻印師は影のように現れ、膝をつくでもなく、ただ頭を下げた。


 王は、余計な前置きを捨てた。

「神脈と影妃を切り離す方法を探れ」

 それだけだった。

 理由も、猶予も、与えない。

 命令は短く、冷たい。——王としての言葉だった。

 ノアの呼吸が、わずかに止まる。

 沈黙が落ちる。

 石の冷気が、二人の間に溜まっていく。

 やがて、刻印師は、低く告げた。

「……陛下。すでに、方法は見つけています」

 ゼクスの瞳が、わずかに細くなる。

「ただし——」

 ノアは一拍置き、言葉を研ぐように続けた。

「王の命を、引き換えにするやもしれません。魔力が失われ、神脈が乱れ、最悪の場合——眠りから戻れない」

 その言い方は、警告ではない。

 報告でもない。

 試している、とゼクスは思う。この刻印師は、男として、王の覚悟を量ろうとしている。

 ゼクスは、即答しなかった。

 ほんのわずかな沈黙。

 それは迷いではない。


「……いいだろう」

 低い声だった。

 命を差し出す英雄の声ではない。

 切り捨てる決断の声でもない。


 ただ——王が、王として選んだ声だ。


 ノアの目が、ほんの僅かに揺れた。

 ゼクスは、淡々と続けた。

「もともと、おれは王位に就くはずの身ではなかった。庶出の王より、正当な血脈が必要だという理屈なら——クリシュナでいい」

 世界で遊ぶ異次元の女の名前を、ゼクスは挙げた。

「あれは変わった女だ。だが、アビゲイルがいる。神殿の柱としてお前が立てば、国は回るだろう」

 そこで、ゼクスは一度、息を吐いた。

 その呼気だけが、王ではない温度を持っていた。

「……ただし」

 声が、わずかに落ちる。

「お前が、影妃に触れるな。お前の外套を、あの女の肩に羽織るのも許さない」

 言い終えてから、自分でも分かった。

 今のは命令ではない。

 王権のためでもない。

 男の領分だ。

 ノアは、静かに笑った。

 嘲りではない。哀れみでもない。

「笑止」

 ゼクスの眉が動く。

「……なんだと」

 刻印師の声が、変わる。

 抑えていたものが、刃の形を取り始める。


「あなたは、何を知っているのです」

 ノアは一歩、す、と顔をあげて、ゼクスを真正面に見た。


「彼女の献身。彼女の強さ。そして、彼女が、どれほどの苦しみの中で壊れずに立ってきたか」

 ゼクスが何か言おうとした瞬間、ノアは遮った。

 声を荒げない。

 だからこそ、痛い。

「あなたが戦場に追いやられていた十年、影妃など見向きもせず、王宮の底で沈むままにしていた十年」

 その一言に、ゼクスの喉が鳴った。

 否定できない。

 否定すれば、ただの言い訳になる。


 ノアは続ける。

 淡々と、だが、胸の奥を抉る速度で。

「彼女は毎夜、あなたの無事を祈っていました。刻印の疼きで視界が滲む日も、痛みで立てぬ夜も——それでも、王都の経済を回していた」

 ゼクスの指先が、わずかに硬くなる。

 王としてではなく、男として。

 ノアは、まっすぐ王を見た。

「あなたが先に出会った。それだけのことです」

 言い切りは残酷だった。そして、誠実だった。

「わたしは、あなたよりずっと長く、影妃を見つめてきた。わたしが刻んだ花です。彼女の背に——過酷な運命を刻んだのは、わたしです」


 そこで、ノアは一度、言葉を切った。自分の罪を、噛み締めるように。


「ならば、幕引きも、わたしの手で」

 ゼクスの目が、僅かに揺れる。

 この男は、何を背負い、何をしようとしているのか。


 ゼクスは、低く言った。

「……おれの命令を軽んじるな」

 ノアは、首を振らない。ただ、静かに返した。

「違います。…あなたが命を差し出すなど、おこがましい、と言っているのです」

 声は穏やかだ。

 なのに、刃のようだった。

「命を捧げるとしたら——このわたしです」


 沈黙が落ちる。

 石壁が冷え、遠くの祈りの音だけが微かに聞こえた。


 ゼクスは、何も言わなかった。

 言えば、王になる。

 言えば、男になる。


 どちらでも、この沈黙は壊れる。


 だから王は、ただ一つだけ告げた。

「影妃を、自由の身に」

 ノアは、微かに目を細めた。

「承知しました、陛下」

 ノアは踵を返した。

 回廊に、冬の匂いだけが残る。


 ゼクスは、その背を見送ったまま、動かなかった。


◇ ◇ ◇


 神殿の奥は、冬の匂いがした。

 香は焚かれているのに、冷えは消えない。石が、骨まで冷やす。

 回廊の先、扉が一枚——ほかのどこよりも静かな部屋。

  そこに、クリシュナはいた。

 長椅子に斜めに腰かけ、脚を組んだまま、薄い夜着の襟を指で引く。

 普段なら民に見せる微笑の仮面も、冠も、ない。

「……来たのね、ノア」

 声は甘い。

 けれど、その眼だけが乾いている。水分のない宝石みたいに、どこまでも冷たかった。

「夜分に失礼いたします、皇女殿下」

 ノアは礼をとった。深すぎない。軽すぎない。

  神殿の人間として、あくまで“形式”を守ったまま、距離を詰めない。

 クリシュナは片眉を上げ、くすりと笑った。

「その礼、誰に教わったの? アビィ?」

「……必要な礼です。殿下に対しても、神殿に対しても」

「ふうん。堅い」

 くるりと寝椅子の上で体勢を変え、クリシュナは膝を抱える。

  天使の顔で、子どもみたいな仕草をする。

  それが、計算だと分かるのが恐ろしい。

「で? 王に命令された?」

 ノアは、少しだけ息を置いた。

  答えの間に、余計な感情を落とすために。

「はい。ですが——皇女殿下にお会いしたのは、“命令のため”ではありません」

「嘘。命令のためよ」

 クリシュナは即断し、楽しげに指を鳴らした。

「あなたがここに来る理由はいつだって二つ。 ひとつは神殿のため。もうひとつは——影妃のため」

 ノアは瞬きをしない。否定もしない。

  その沈黙を、クリシュナは“肯定”として扱った。

「いいわ。言って。なにを“預けたい”の?」

「神脈です」

 室内の空気が、一瞬だけ張り詰めた。

 香の匂いが、遠のいた気がした。

 クリシュナは、驚かなかった。

  驚いたふりだけを、ほんの少しした。

「へえ。大胆。……神脈を、私に?」

「正確には、殿下に“預かって”いただきたい」

「預かる、ね」

 クリシュナは、胸元に指を当てる。

  そこに“何もない”ことを確かめるように。

「私の花紋は開かない。知ってるでしょう」

「存じています」

「溜まるだけ。流れない。循環しない。——欠陥よ」

 彼女は笑った。

  自嘲でも、諦めでもない。事実を玩具のように転がす笑いだ。

「欠陥品に、国の心臓を預けるの?」

「欠陥だからこそ、預けられます」

 ノアは、初めて少しだけ声を強めた。

「流れない器は、暴走しない。過剰に回さない。 “預かる”だけなら、あなたが最適です」

 クリシュナの瞳が細くなる。

  甘い顔のまま、獣のように相手を測る。

「つまり、私は“安全な貯水槽”だと?」

「殿下が恐るべき方だと承知しています。ですが——それが現実です」

「現実、ね。嫌いじゃないわ」

 クリシュナは長椅子から降り、素足で床を歩いた。

  音がしない。

  近づくほど、冷えが濃くなる。

「でも。預けるってことは、対価がある」

「はい」

「私は何を得るの?」

 ノアは答える前に、少しだけ視線を落とした。

  感情を出さないためではない。

  出してしまいそうだからだ。

「国が、生き延びます」

「つまんない」

 クリシュナが即座に切り捨てる。

「国が生きる? そんなの、あなたの趣味でしょう。 私の趣味じゃない」

 ノアは、そこで一度、呼吸を整えた。

「……殿下は、“世界で遊ぶ”ことを望まれる。そのためには、神殿が崩れないことが必要です」

「ふうん?」

「神殿が崩れれば、殿下は“玩具”を失います。

  秩序も、観察対象も、あなたを飽きさせない愚か者たちも」

 クリシュナは目を丸くした。

  そして、愉快そうに笑った。

「今の、結構ひどいわね。ノア」

「事実です」

「……おもしろいかもね」

 小さく言って、クリシュナはくるりと背を向けた。

  わざとらしく、窓際に立つ。

  窓の外の夜の王都は、まだ静かだ。

「でも、まだ足りない。もっと“私だけが得する”ものがほしいわ」

 ノアは、言葉を選ばない。

「影妃レイシアを、見逃していただきたい」

 クリシュナの肩が、わずかに動いた。

  微笑が、消える。

  代わりに、素の顔が出る。感情の薄い、透明な顔。

「……なるほど。そこが本音」

「はい」

「影妃を処刑する。形式上。その混乱に乗じて国外へ逃がす。 神脈の器から切り離す。

  そして——あなたは彼女を自由にする」

 クリシュナは、窓に映る自分の姿を指でなぞった。

「あなた、影妃が好きなの?」

 問いは軽い。だが、刃のように鋭い。

 ノアは、即答しなかった。その一拍が、答えだった。

「……好き、という言葉で、片付けたくありません」

「ふうん。男って、面倒」

 クリシュナは振り返る。そして、悪意のない残酷さで言う。

「じゃあ、あなたはその女の“罪”も背負うの?」

「背負います」

「王の罪も?」

「……背負います」

 クリシュナは目を細めた。

  何かを確かめるように、しばらく黙ったあと。

 ふうん?とクリシュナは上目遣いでノアを見る。

「答え合わせをしましょう」

 ふいに、クリシュナは言う。

「どうぞ」

「あなたの言う、影妃の罪とは?」

 答えをすりあわせるように、何かを値踏みするように、皇女は刻印師を見る。

「影妃の罪は、明白です」

 ノアは、淡々と続ける。

「王が沈黙しても、元老院が動かなくても、神殿が介入しなくても、王都が回る仕組みを、先に作ってしまった」

 クリシュナの指が、杯を止める。

「彼女は反乱を企てたわけではない。ただ、王を必要としない現実を証明したのです」

「ええ」

  ノアは頷いた。

  「だから彼女は、切り捨てられる。それが、この世界の論理です」

「……かわいそうに」

  クリシュナは、心にもない同情を口にする。

  「優秀すぎたのね」

「そして」

  ノアの声が、わずかに低くなる。

  「それを承知で、彼女は選びました。自分が悪女として憎まれることも。処刑されることも。歴史に、歪んだ形で名を残すことも」

 一拍。

「――それが、彼女の罪です」

「では、王は?」

 クリシュナが、楽しそうに促す。

 ノアは、少しだけ息を吸った。

「王の罪は……」

  「彼女を守ると決めきれなかったこと」

 クリシュナの瞳が、わずかに細くなる。

「王としては、正しかった。彼女を切り捨てれば、国は安定する。彼女を生かせば、王権が揺らぐ」

「……でも?」

  「男としては、遅すぎた」

 ノアの言葉は、刃のように真っ直ぐだった。

「彼は、彼女を“必要な存在”として使った。愛していたのに。守りたいと願っていたのに。…役割の中に閉じ込めた」

 沈黙。

「それが、王の罪です」

 クリシュナは、ゆっくりと身を起こした。

「……で?あなたは?」

 ノアは、初めて視線を落とした。

「私の罪は――刻んだことです」

「彼女の背に、わたしが花を刻みました。器として生きる運命を、決定づけた」

 声は震えない。だが、逃げてもいない。

「彼女は自分自身で影妃の運命を引き受けたのです。しかし同時に、わたしは…彼女の人生を奪った」

 すこし、間があった。

「だから…代価は、私が支払います」

 クリシュナは、しばらく黙っていた。

 やがて、くつくつと笑う。

「……なるほど」

「きれいに揃ってるわね」

 彼女は、自分の胸元に指を当てた。

  何も刻まれていない、白い皮膚。

「じゃあ、私の番かしら」

 軽く、しかし確かに。

「私の罪は――世界を回せないこと」

 ノアが顔を上げる。

「開かない花紋。力はあるのに、循環しない。溜まるだけで、流れない」

 クリシュナは、あっさり言った。

「王にもなれない。神にもなれない。ただの観察者」

 ふっと笑う。

「欠陥品よ」

 ノアは、そこで初めて核心を告げた。

「だからこそ、です。あなたなら…神脈を“預かる”ことができる」

 クリシュナは、にっこりと微笑んだ。

「いいわ。合格よ。条件を出して」

 ノアは、ここからが取引だと理解した。

  言葉を一つ、間違えれば、すべてが崩れる。

「ひとつめ」

 ノアは淡々と口にする。

「殿下は、神脈を“預かる”。 流さない。回さない。 冬至節の祭祀が終わるまで——保持する」

 クリシュナは頷く。

「ふたつめ」

「影妃の商団と、神殿は不可視の契約を結ぶ」

「……王都の経済を、回せる存在が必要よね」

 クリシュナの声が、少しだけ甘くなる。

「影妃の類い希な商才は、国を生かしている。それを地下に潜らせれば、王都は必ず枯れます。元老院は、目に見える秩序しか扱えない。あなたは——数字と流れで秩序を作れる」

 クリシュナが口角を上げた。

「褒めてる?」

「そう聞こえますか?ならば、そういうことに」

「ふふ。みっつめは?」

 ノアは、少しだけ声を低くして、言った。

「皇女殿下は、影妃の国外逃亡を黙認する」

「よっつめ」

「……皇女殿下は、影妃の行方を“玩具”にしない」

 クリシュナの笑みが、ぴたりと止まった。

  そして、次の瞬間——

「無理」

 即答だった。

「それは私に死ねと言ってるようなものよ。

  人が必死に隠したものを、開けたくなるのが私なんだから」

 ノアは、ここで引かなかった。

「殿下が遊びたければ、他にいくらでも素材はあります」

「例えば?」

「元老院の“誤読”」

 クリシュナの瞳が、きらりと光った。

「……ああ。あれね。 正しい情報を集めて、最悪の結論を出す連中」

「彼らは、影妃を器として水牢に落とすつもりです。その瞬間から、神殿は“監獄”になる」

 クリシュナの指先が、窓枠を叩いた。

  不機嫌ではない。思考の癖だ。

「神殿が監獄になれば、私は?」

「殿下は“象徴”になります。 閉じた花紋の姫は、都合がいい。 担ぎ上げられ、利用され、飾られる」

 クリシュナの顔から、天使が消えた。

  残ったのは、異次元の冷たい知性。

「……それは、嫌」

「ならば、影妃を“玩具”にしないでください」

 沈黙。

 香が、ゆっくりと戻ってくる。

 クリシュナはしばらく黙り、やがて肩をすくめた。

「分かった。言い方を変える。 “玩具にしない”は無理。でも——“殺さない”。“壊さない”。

  それなら、守れる」

「……十分です」

 ノアは、小さく頷いた。

 クリシュナは、ふと目を細める。

  そして、唐突に言った。

「ねえ。昔」

 ノアの表情が、わずかに動く。

「あなたが神殿の工房で、花を刻んでたとき」


 ——回想が、薄い膜のように降りる。

 幼いクリシュナは、神殿の柱に寄りかかり、背伸びして覗き込んでいた。

  青年のノアは、黙々と刻印刀を扱っていた。新種の樹木の若木に、経脈をの流れを刻む術式を展開中だった。まだ短い銀髪が、淡い日差しを受けてきらめいていた。刻印師は、手つきだけが静かで、目だけが遠かった。

『ねえノア。私にも刻んで』

『……クリシュナ様には、生まれながらの花紋があります』

『開かないのに?』

 幼い声は、怒りも悲しみもなく、ただ好奇心だけがあった。

『ねえ。あなたの刻む花、すごく綺麗。背中に欲しい。私も、ああいう花が欲しい』

 青年ノアは、一度だけ手を止めた。

  そして、酷く優しい声で言った。

『——欲しがるものではありません。花は、運命を固定します』

『固定したい。私、流れないから。固定なら得意でしょう?』

『……殿下は、流れないことに救われる日が来ます』

『いつ?』

『今ではない』


 そして、もうひとついの、記憶。

 神殿の奥。

 子どもが立ち入るには許されないはずの回廊。


 けれど、あの日は――誰も、気づかなかった。

 柱の影。

 冷たい石の床に、裸足の足裏を押しつけて、クリシュナは、息を殺していた。

 隣には、ゼクスがいた。まだ王ではない、ただの少年だった頃の。

 視線は、すでに“向こう側”に奪われていた。


 扉の隙間。

 そこから見えたのは――一人の少女の背中だった。


 痩せた肩甲骨。まだ幼さの残る線。白い背に、赤い線が、ゆっくりと走っていく。

 血。

 だが、それ以上に――動きだった。


 刻印師ノアの手。異様なほど、静かで、正確で、迷いがない。

 刃を持つ指先は、震えない。ためらいも、慈悲も、見せない。

 それなのに。――美しかった。

 クリシュナは、思わず息を呑んだ。

 それは、ただの刻印ではなかった。肉体に彫る紋様ではない。

 世界の経脈をなぞる行為。


 魔力の流れ。神脈の分岐。循環と遮断、その両立。

 一つ間違えれば、器は壊れる。一つ逸れれば、命が落ちる。


 なのに、ノアの手は、そのすべてを理解した上で、ためらいなく進んでいた。

(……すごい)

 幼いクリシュナは、ただ、そう思った。

 難解。複雑。高度。――そして、完璧。

 やがて、線は形を成しはじめる。

 花。

 背中に咲く、ひとつの花。

 血に濡れながら、それでも凛として、静かに、確かに、咲いていく。


「……きれい」

 思わず、声が漏れた。

 彼女の目は、少女の背に刻まれていく花から、離れなかった。


(……ああ)


 その瞬間、クリシュナは、理解してしまった。


 自分には、この花は刻まれない。

 自分の花紋は、開かない。

 力はあるのに、流れない。

 溜まるだけで、咲かない。

 ――でも。


(それでも)


 刻まれる花の美しさを、世界の構造を、術式の意味を、理解できてしまった。

 それが、何よりも、残酷だった。

 花を刻まれていく少女は、声を上げなかった。泣きもしなかった。

(……あの子)

(壊れないんだ)

 そのことに、クリシュナは、恐怖より先に、強烈な興味を覚えた。

 花に。術に。刻む手に。そして――刻まれる少女に。


 扉が閉じられる。儀式の音が、遠ざかる。


 あの日から。

 花を見るたびに、刻印を見るたびに、世界の循環を考えるたびに、――思い出す。

 血に濡れた背中に、静かに咲いていく、あの花を。


(……だから)

 今なら、分かる。

 レイシアが、壊れずに立っている理由も。

 ノアが、自分の胸に刻む覚悟をした理由も。

 そして。

(……私が、神脈を“預かる”意味も)

 クリシュナは、静かに目を閉じた。


 回想が、静かにほどける。

「あなた、いつか言ったわよね。 “流れないことに救われる日が来る”って」

 ノアは、目を伏せる。

「……そんなことも、ありましたか」

 クリシュナは、満足そうに微笑む。

「交渉成立ね、刻印師」

「……ありがとうございます」

 クリシュナは肩をすくめる。

「礼なんていらない。その代わり——あなたが代価を払うのよね?」

 ノアは、静かに頷いた。

「はい。わたしが刻みます」

「どこに?」

「……わたしの胸に」

 クリシュナの瞳が、少しだけ暗くなる。 興味ではない。 “見たことのある痛み”を思い出した目だ。

 ノアは一礼し、扉へ向かう。

  開ける直前——背中越しに言った。

「殿下」

「なに?」

「影妃を、どうか——“壊さない”でください」

 クリシュナは、刻印師の背中に向かって言う。

「壊れないわよ。あの女は」

 一拍置いて。

「壊れるとしたら—— 男たちのほうでしょう。あなたを含め、ね」

 ノアの指が、扉の取手で止まった。

  だが、振り返らない。

 扉が閉じる。

 残されたクリシュナは、長椅子に戻り、足を組み直した。

  そして、独り言みたいに呟く。

「……面白くなってきた」

 心から、そう思っている声だった。

 冬至節は、数日後に迫っていた。



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