第2話 宝物庫大解放
お読みいただきありがとうございます。
影妃としての役目は、
光の届かない場所でこそ試されます。
静かに、しかし確実に――
“影”が動き始める第2話。
楽しんでいただけると嬉しいです。
王都は、朝から浮き立っていた。
久方ぶりに王が前線から戻る――その報せだけで、商人たちは旗を掲げ、酒場は夜を待たずに酒樽を開けた。町の娘たちは、新しい装飾品を買い、若い兵士たちは胸を張って町中を闊歩する。
王の帰還は、いつだって祝祭だ。
ただひとり、その知らせを聞きながらも、冷めた目で眼下の賑わいを見つめている女を除いては。
「ついに今日、王がお戻りになるのですね、レイシア様」
侍女のミラが、うきうきとした調子で言う。
「そのようね」
豪奢な飾りの窓枠にもたれ、見事な黒い巻き毛を指でもてあそひながら、影妃レイシアは退屈そうに答える。
「……やっと、お会いになれるのですね」
ミラの目は、優しい。
彼女だけは知っている。影妃が、誰にも言わずに、何に耐え、何を待ち続けていたのかを。
「そうね」
レイシアは短く答えた。
影妃は、形式上は王の妻だ。だが影妃制度が始まって以来、王と影妃がまともに顔を合わせた例など数えるほどしかない。影妃になる者には、形式上、王妃の代理としてそれに次ぐ地位と権威が与えられるが、常に元老院の厳しい監視下に置かれていた。なにより、歴代、影妃に任じられる娘には虚弱な体質の者が多く、私室や神殿にこもって過ごすのが常であった。む
ろん、かりそめの妃である影妃の私室を王が訪れることはない。まして、今回の王は戦場育ちで、即位直後から前線に出ずっぱりだった。
七年。
七年ものあいだ、影妃は王宮の隅に閉じ込められたまま、王からひとことの便りもない。
むろん、おとなしく「閉じ込められている」ようなレイシアではなかったのだが。
「よくも、ここまで徹底して無視できたものね」
レイシアは、爪先で窓枠をとん、と叩いた。真紅に塗られた爪が、冷たい木の表面を軽く削る。
「……では、どうなさるのです?」
どうも、先日、王帰還の知らせを受けて以来、またあらぬ悪だくみを練っている様子の影妃に、侍女ミラは不安げに尋ねる。
「決まっているでしょう」
すっと立ち上がり、黒髪の巻き毛を背に流す。肩甲骨のあたりで、刻まれたゼフィールの偽紋が、わずかに熱を帯びた。
「見せてあげるのよ。これが、あなたの影妃だって」
王の心になど届かなくていい。届くとも思っていない。
ただ――このまま「いないもの」にされることだけは、我慢ならなかった。
「さあ、ミラ。仕事よ」
「……はい?」
「祝い事でしょう? じゃあ、それらしく、盛大にやらないと」
裏で誰が青ざめようと、知ったことではない。
レイシアは、悪戯する前の子どものように、可笑しげに微笑んだ。
* * *
詔書部の部屋は、紙と墨の匂いに満ちている。
年老いた書記官は、震える手で文面をなぞっていた。
「あ、あの……レイシア様、いくらなんでも、これは――」
「お祝いよ」
レイシアは、さらりと言った。
「王のご帰還を、国中で祝うの。恩赦。無実の罪を着せられた者たちの釈放。徴税の減免。
いいじゃない。めでたい日なんだから」
「し、しかし、王のご署名が――」
「ここにあるでしょう?」
スッと差し出されたのは、掌におさまるほどの黄金の塊ーーゼフィーリア王国の王印である。書記官は、ぎょっと目をむく。
「こ、これは……陛下の印璽……!」
「前線に向かわれる前に、元老院に預けていったでしょう? 『緊急時のみ使用可』って」
レイシアは、ゆっくりと笑った。
「ええ、緊急事態よ。罪なき民が牢に繋がれたままなのだもの。王都じゅうが、貧しさで喘いでいる。――これ以上の緊急がある?」
書記官は、言葉を失った。
机の上には、すでに何通もの詔書が並んでいる。
「恩赦」「減刑」「釈放」「徴税緩和」。
どれも丁寧な筆致で、しかし迷いなく書かれていた。
書記官は、最後のあがきのように問う。
「……で、ですが。もしこれが露見したら、あなた様は――」
「私だけじゃないでしょう」
レイシアは肩をすくめた。
「あなたも、首が飛ぶわ。でも――」
金貨の袋が、机の上で重い音を立てる。
「老後の心配くらい、してあげる」
書記官は、しばし目を閉じ、それから観念したように印章を持ち上げた。
朱肉に触れさせ、詔書に押す。乾いた音が、部屋に響いた。
「……これで、王命として通ります」
「ありがとう。お礼に、牢屋から出てくる人々の顔、見に行ってくるといいわ」
レイシアはくすりと笑った。放免になる無実の民の中には、老齢の書記官が実の息子のように目をかけてかわいがっていた、彼の甥も混じっているのだった。
* * *
次に向かった先は、宝物庫である。
分厚い扉の前で、番兵たちが顔を強張らせる。
「影妃様、ここは――」
「開けてちょうだい」
レイシアは、当然のように言った。
「王の帰還祝いよ。国中の民に、祝福を分け合わないと」
「し、しかし、許可が……」
「あるわ」
懐から取り出したのは、正式な公印の許可証だった。形式上は「王妃の祭礼準備」のために発行されたもの。目的欄には、明確に「王の帰還式典における献上飾りの選定」と記されている。
番兵は顔を見合わせ、最終的に観念したように敬礼した。
重い扉が、きしみを上げて開く。
眩い光が、レイシアの顔を照らした。
「……ふふ。やっぱり、寝かせておくだけなんて、もったいない」
宝物庫の中には、先王時代から蓄えられてきた金銀財宝が、山のように積まれている。宝石の詰まった箱。繊細な細工が施された冠。外国から贈られた珍しい金属の杯。
レイシアの目が、するりと全体をなぞった。
「全部は無理ね。でも、見せるだけなら」
彼女は振り返り、自身の配下の者たちに顎をしゃくる。
「リストは渡してあるわね? それぞれ馬車に積んで。運ぶ先は――町で一番目立つ場所よ」
指さしたのは、王都で最も大きな市場の広場だ。
「あそこなら、人が勝手に集まるでしょう」
* * *
王都の広場は、ほどなくして、文字通り人で溢れ返った。
「なんだあれは……?」
宝物を積んだ馬車が列をなし、その先頭に立つのは黒衣の女である。
風に揺れる黒い絹のような黒髪は、すでに民には見慣れたものだ。影妃でありながら、王都を自由に遊びまわる女の最悪な風評は、街中に知れ渡っている。
影妃レイシア。
噂に名高い悪女が、王都最大の広場の中央に、ゆっくりと歩み出る。
「集まってくれて、ありがとう、皆さん」
声が、澄んでいる。
よく通る声だった。
「今日は王の帰還を祝う日。だから――少しばかり、祝いの品を分け合いましょう」
周囲がざわめいた。
「まさか、本物か?」
「影妃だ……!」
「また何か、気まぐれを……」
それらの声を、レイシアはさらりと一瞥して、配下の男たちに目で合図を送る。
男たちは、恭しく頭を下げると、荷台の蓋を一斉に開けた。
金貨がこぼれ落ちた。
宝石が、布袋から溢れた。
香油の瓶、絹の反物、細工の美しい小物たち。
光が舞い、悲鳴に似た歓声が上がった。
「好きなだけ持っていきなさい」
レイシアは笑った。
「今日の陛下は、寛大なお心だから」
群衆が、一斉に動いた。
普段は王宮の影だけを見て暮らす貧民たちが、ためらいながら手を伸ばす。子どもたちが、宝石より先にパンの包みを掴む。誰かが泣き叫び、誰かが笑い、誰かが膝をついて祈る。
レイシアは、その光景をただ静かに見つめていた。
――これくらいの罪で済むなら、安いものだ。
ゼクス様。
決して声に出しては呼ぶまいと決めた名を、心の中で、そっとつぶやく。
きっとあなたは、これを「暴挙」と呼ぶのでしょうね。
* * *
「陛下、式典の広場が……!」
王城の門をくぐった瞬間、前方の広場の異様なざわめきに、ゼクスは眉をひそめた。
兵たちの列の向こうに、あり得ない光景が見える。
見物人で埋め尽くされた広場。
その中心で、金貨が空を舞っていた。
「何事だ」
軍装を解かぬまま、ゼクスは馬をとめ、馬上から広場を見る。
歓声と叫び声と泣き声が混じり合う中で、一点だけ、静かな場所があった。
黒衣の女が、ひとり立っていた。
一瞬、目が合った、ような気が、した。
「……影妃のレイシア様です」
側近が耳元で告げる。
「陛下の名において、民に、恩赦と宝物の下賜を行っているとか――」
「誰がそんな命令を出した」
ゼクスの声は、低く、冷たかった。
「そ、それが……詔書には、陛下の印璽が……」
ゼクスは、広場の中央に立つ女を、馬上から真正面に見据えた。
黒い髪。白い首筋。毒々しいほどの赤い爪。
美しい女だといういうことは、遠目にもわかった。
感情を抑えた低い声で、つぶやく。
「この、ふざけたバカ騒ぎの首謀者が、あの女か」
* * *
その夜、 王の帰還を祝う饗宴は盛大に催された。
王都ゼフィリアの宮殿の大広間は、昼間とは別世界である。
煌々と灯された千の燭火が、天蓋を金色に照らし、 楽師たちの琵琶と鈴の調べが、宵闇を震わせている。
ふいに、重厚な扉が音をたてて開いた。空気が一瞬、張り詰めた。
――影妃レイシアが進んだのだ。
その瞬間、 会場の空気が変わった。
――蜜色の双眸の、見事な黒髪の女である。
身にまとっているのも、黒だ。
漆黒の絹が、月光を束ねて流れ落ちるような、 斜めに裁たれたドレス。
片側の肩から大きく落とされた布地は、 意図的に“隙”がつくられており、 白い肌と、刻まれた偽紋の端を、ちらりとのぞかせている。見せつけるでもなく、 隠すでもなく。 「背負っている」その事実を、 あえて美学として纏っている。そのように「見える」よう、意
図的に装っているのだろう。すべて計算づくのいで立ちだ、と冷めた目で王ゼクスは影妃を検分する。
腰には、細く銀糸を編んだ帯飾りが揺れる。
首には、 黒曜石をただ一粒。
女は背筋を刃のようにまっすぐに伸ばし、一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。
ゼクス・ルフィリア王は、玉座に座ったまま、女を見下ろした。
(……なんだ、この女は)
噂の悪女にして、王宮の災厄。
そう聞かされていた。
美しい女なら、見慣れている。 高級娼婦たちの妖艶も、可憐な貴族令嬢たちのまなざしも。 そのどれもが、ゼクスにとっては空虚で、退屈な幻にすぎない。
だが――
自分の正面に立つ影妃は、ゼクスが知るこれまでの女とはまったく異質だった。
さらに進み、レイシアは、王を見上げた。炎を秘めた琥珀色の瞳が、王を射抜く。
一瞬、ゼクスは、己の呼吸が乱れたのを感じた。
戦場で身についた反射で、腰の剣に指先が伸びる。
いっぽう、レイシアもまた、王を真っ直ぐに見据えていた。
(……思っていたより若い)
そして、
(こんなにも、怖い瞳をしていたかしら)
精緻な彫刻のように整った顔立ちに、冷めた夜明けの色の黒髪。
冷えきった刃の青を宿す双眸は、見つめられた者の呼吸を一瞬で奪い去る冷気を孕んでいる。
遠い昔、幼い心に刻まれた記憶とは、まるで違う。
もっと、優しい、あたたかな眼差しの方だったのに。
舞台の上の役者のように、影妃は、ゆっくりと裾を持ち上げ、王に向かって一礼した。
「お帰りなさいませ、陛下」
不遜な女だ、とゼクスは思う。
「お顔の色が冴えないようですわね」
はっきりとした挑発を込めて、レイシアは続ける。
「あなた様のご帰還を、これほど盛り上げてさしあげましたのに」
怒りとも、呆れともつかぬ感情が、ゼクスの胸の底で渦を巻く。
王を前にして、この、不遜さ。大胆不敵さ。
――いったいなんなのだ、この女は。
戦場に出て10年近い年月が流れていた。
影妃の存在など歯牙にもかけていなかった。ゼクスにとって影妃とは、正妃の花紋が「開く」までの身代わり、元老院が下級貴族の娘たちから選出する政治の駒。なんの契約にも縛られないかりそめの妻である。
初めて目にするはずの女だ。
しかし、なぜか、どこか、胸の奥がざわついた。
少年のころ、地下神殿の扉の隙間から見た、血の花。
倒れ落ちた黒髪の少女。
思い出しかけた記憶を、ゼクスは無理やり押し戻した。
「……影妃」
ゼクスは、低く言った。
「自分が何をしたのか、分かっているのか」
レイシアは、ふふ、と笑った。
「あら。わたくし、陛下のご帰還を、国じゅうで祝ってさしあげただけですわ」
おどけた影妃の声と、怒りと侮蔑の入り混じった王の視線が、ガチリ、と音を立ててぶつかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ゼクスと影妃の距離はまだ遠いまま。
それでも、確実に何かが動き出しています。
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