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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第18話 未遂の朝

 夜が、まだ街に残っていた。


 娼館の裏口。

 朝と呼ぶには早い時刻に、湿った空気が、ゆっくりと引いていく。

 レイシアは、湯であたたまった肩に、外套を羽織った。


 薬湯の名残が、まだ身体に残っている。

 薬草と微かな鉄の匂い。

 血を鎮め、刻印の疼きを抑えるための湯。

 王宮の湯殿では、あの調合は使えない。

 誰も問わず、誰も記さない場所でなければ、影妃の身体情報はそのまま元老院へと漏れてしまう。

 薬湯の調合はノアが行っており、定期的に薬湯に浸かることは痛みの沈静化のために必要だった。


「お迎えにあがりました」

 声は、静かだった。

 振り向くと、ノアが立っている。

 神殿の装いではない。

 刻印師として街に出るときの、簡素な外套を羽織っている。


「ノア」

 ほっと安心したように、レイシアは笑った。

「からだを冷やさないように」

 当然のように、ノアは自分の外套を影妃の肩にかけた。

 そして、ただ、並んで歩き出す。


 街は、まだ眠りの途中だった。

 店は閉じているが、運送の馬車は動いている。

 麦袋が運ばれ、

 塩の樽が積み替えられる。

 誰も声を荒げない。

「……流れは、滞っていません」

 ノアが、低く言った。

「ええ」

 それだけで、十分だった。


 影妃となって七年。

 王宮の裏側で、誰にも知られぬまま動かしてきたもの。

 それが、今日も機能している。

「王のために、みずから汚れ役を?」

 ノアの声には、責めるような響きはない。

「<影妃>という駒を、誰にも、利用させないためよ」

 レイシアは、即答した。

「……それでも」

 少し、言葉を選ぶ間。

「長いこと、想ってこられた」

 一瞬の沈黙。

「恩を、返しているだけよ。…昔、命を救われたから」

 レイシアは、視線を逸らさずに言う。

「私にさえ、本音を語れないほど」

 ノアは、淡々と続けた。

「本気だということですね」

「ノア」

 それ以上は、言わせなかった。


 王宮の門が見えたところで、ノアは足を止めた。

「ここまでです」

「…ありがとう」

 レイシアは、短く礼を言い、刻印師に背を向けた。


 ◇ ◇ ◇


 待ち伏せは、意図的だった。


 回廊の影。

 朝の光が、まだ届かない場所。

「……遅かったな」

 低い声。

 レイシアは、足を止める。

「娼館に寝泊まりする妃が、この世界のどこにいる」

 ゼクスの声には、怒りよりも、硬さがあった。

「いるでしょう、ここに」

 レイシアは、微笑んで歩み去ろうとした。


 その手首を、王が掴む。


 強くはない。だが、逃がさない力だ。

「娼館を隠れ蓑にして、何を動かしている」

「おれの知らない盤が、そこにあるのか」

 ――王としての問い。

 しかし、かろうじて、だ。


 風が、回廊を抜ける。

 影妃の首筋に残る薬湯の匂いが、強く鼻を刺した。

 湯の名残のぬくもりが、細い手首の内側にある。

「……湯浴みを?」

 問いは、鋭かった。

 視線が、喉元に落ち、次いで、肩に羽織られた男物の外套に向く。

「誰か――」

 言いかけて、止まる。

 神殿の外出着。

 刻印師のものだ。

「お前に、触れたのか」

 声が、低くなる。


 違う、と言いかけて、レイシアの身体が、ふっと揺れた。


「影妃?」

 力が抜ける。思わず、王の腕の中に、倒れこむ。


「……熱がある」

 額に触れた指先が、即座に判断する。

 薬湯が、まだ回っている。

(……無茶をしている)

 いや。無茶を、させているのは、このおれなのか。

 責める言葉は、喉元で崩れた。

 ゼクスは、彼女を抱き上げ、寝台に下ろす。

 触れたい衝動が、宙で止まる。

「お前は……」

 言葉が、続かない。


 ◇ ◇ ◇


「……ゼ、ク……ス……さま……」

 掠れた声。

 名を呼ぶだけで、息が乱れる。

「……たす、けて……じゃ……ない……」

 微かに、首を振る。

「……だい、じょうぶ……わたしは……」

 唇が、わずかに笑う気配。

「……だから……どうか……」

 息を吸おうとして、苦しげに眉を寄せる。

「……戦場……寒い……夜は……」

 途切れ途切れの言葉。

「……お背中……冷えて……」

 そこまで言って、

 指先が、無意識に胸元を探る。

 ――祈る仕草。

「……おそばに……いられなくても……」

 声が、かすかに震える。

「……おいのりは……できます……」

 はっきりと、名前を呼ぶ。

「……ゼクスさま……」

 一瞬、呼吸が整う。

「……どうか……ご無事で……」

 それは、願いだった。

 助けを乞う声ではない。


 王の胸が、ひどく締めつけられた。

 ――その声。

 記憶が、急に重なる。


 貧民窟の裏路地。

 血にまみれた夜。


 瓦礫の陰で、必死に息を殺していた、小さな身体。


 あのとき、助けを乞う声は、なかった。


 そして――神殿の奥。

 扉の隙間から、垣間見た刻印の儀式。

 背中に、花を刻まれる少女。

 血に濡れた背。

 泣きも、叫びもしない横顔。

(……お前だったのか)

 指先が、わずかに震える。

「あのときの……」

 ゼクスは、呟いた。

「お前だったのか」

 レイシアは、答えない。

 ただ、浅い呼吸を繰り返す。


 王は、ゆっくりと立ち上がった。

 影妃は、かつて救った少女であり、救われぬまま、王を支え続けてきた女だった。


 朝の光が、ようやく回廊に差し込む。


 ◇ ◇ ◇


 ――遅すぎた。


 それが、最初に浮かんだ言葉だった。


 守ったつもりでいた。

 遠ざけてきたつもりでいた。

 王として、必要な距離を保ってきたと。

 だが実際には、彼女は、王の背後で血を流していた。


 名を持たぬ場所で。

 汚れた役目を引き受け、誰にも利用されないために、自らを切り捨てながら。

(……知らなかった、では済まされない)

 王であるということは、見ない自由を持つことではない。


 選び続ける責任だ。


 彼女を、影妃にしたのは自分だ。

 だが、影妃として生きることをここまで過酷にしたのは、自分の沈黙だった。


 守るために、口を閉ざした。

 だがその沈黙が、彼女を、誰よりも危うい場所に置いた。


 ゼクスは、静かに息を吐いた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

もし少しでも続きを気にしていただたなら、

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