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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第16話 回収不能

 王の執務室は、異様なほど整っていた。

 決裁待ちの書類は少なく、机の上には、すでに処理済みの痕跡だけが残っている。

「……私の責任です」

 沈黙を破ったのは、オルフェンだった。

 一歩進み、軍師は深く頭を下げる。

「影妃様に関する悪評が、ここまで蔓延した発端は、私の不用意な発言にあります」

 ゼクスは、書簡から目を上げなかった。

「・・・続けろ」

「クリシュナ様との茶会の席で、婚姻の話題が出た際――

 私は、“影妃は王の判断を揺らす存在だ”と口にしました」

 事実だけを述べる声。

「それが、“王を縛る女がいる” “影妃が政を操っている” という形で歪められ、広まっております」

 オルフェンは拳を握る。

「結果として、影妃様は、女性として最も不名誉な噂に晒されております」

 長い沈黙。

 やがて、ゼクスは静かに言った。

「それは、お前の責任ではない」

 オルフェンが顔を上げる。

「陛下……?」

「噂が出ること自体は、想定されていた」

 低く、淡々とした声。

「いや―― 出なければならなかった」

 オルフェンは、息を呑む。

「……戦略、なのですね」

「ああ」

 ゼクスは立ち上がり、窓辺に立った。

「元老院は、王という存在を恐れている」

 断定だった。

「元老院の意に染まぬ王は、制度を壊す。だからやつらは、おれを戦場に追いやった」

 理由はいくらでもあった。

 国境の不安。外敵の脅威。王の軍事的才能。

 十年。勝ち続けるしかなかった日々。

「その十年で、王都では元老院が政を掌握し、王の不在が常態化してしまった」

 王権は奪われたのではない。空洞化させられたのだ。

「おれが戻った時、王には、決定権がほとんど残っていなかった」

 ゼクスは、静かに続けた。

「だから次は、婚姻で縛ろうとした」

「王妃選定を通じて……血縁と制度で管理する、という魂胆ですね」

 ゼクスは頷く。

「――そこに、影妃が必要だった」

 オルフェンは、はっとした。

「必要、とは……」

「婚姻という盤を、内側から壊す存在として、だ」

 迷いのない声。

「正妃にできない女。正妃にすれば、元老院の正統性そのものが揺らぐ女」

 オルフェンは、息を呑む。

「影妃殿下が……その役を?」

「自ら引き受けた」

 即答だった。


 ◇ ◇ ◇


 王の私室にほど近い回廊に面したバルコニーは、夜風が抜ける、半ば開かれた場所だ。


 完全な密室ではない。

 だが、堂々と二人きりで立っていれば、それだけで充分に“密会”に見える。


 ゼクスは、その場所に呼び出された。

 呼び出したのは――影妃レイシアだった。


「……なぜ、ここに?」

 王は低く問いかけた。


 人払いはされている。

 だが、女官や警護の動線から完全に外れてはいない。

 レイシアは、手すりに寄りかかったまま振り返らない。

「見られてもいい場所だからです」

 はっきりとした声だった。

「むしろ、見られる可能性がなければ意味がありません」

 ゼクスは眉をひそめる。

「噂は、すでに広がっている」

「ええ」

 レイシアは静かに頷いた。

「ですが、まだ中途半端です」

 振り返り、王を見る。

「今の私は、単なる“評判の悪い女”でしかありません」

 一歩、距離を詰める。

「評判の悪い女は、――利用されてしまいます」

 ゼクスは、言葉を失った。

「元老院は、悪女であっても “回収できる女”は使うでしょう」

 声は落ち着いていた。感情は、ない。

「体裁を整え、名誉を回復したことにして、婚姻という盤に戻す」

 夜気が、二人の間を流れる。

「それでは、意味がありません。わたしは、元老院の駒にはなりたくありません」

 レイシアは続けて言う。

「私は、利用される悪女ではなく、触れた瞬間に制度が傷つく悪女になる必要があります」

 ゼクスは、低く言った。

「……戻れなくなるぞ」

「今さらです」

 即答だった。

「“すでに妻はいる”と公言された瞬間、私は――」

 一瞬、言葉を切る。

「王権の防波堤になり、政争の生贄になり、社会的に回収不能な存在になったのです」

 静かだが、逃げ場のない宣告だった。

「あなたのせいです」

 ゼクスは言葉を失う。

「ご安心ださい。陛下を責める気はありません。王の側か、元老院の側が、いずれは、どちらかに立ち位置を定めなければならなかった」

「・・・影妃」

「ならば、わたしは、王に利用される女になって差し上げましょう」


 遠くで、足音がした。

 誰かが、回廊を通っている。

「……少しの間だけ、私に、誑かされているふりをしてください」

 迷いはなかった。

「王を惑わす女。王を縛る女。王を私情で動かす女」

 レイシアは、また一歩、王に近づく。後ろの茂みで、王宮の女官たちの声がする。

「それが、元老院にとって最も忌避すべき存在です」

 影妃の白い指が、王の頬に触れる。

「陛下は、ただ、沈黙してください」

 それは、役割の確認だった。

「王でいてください」

 ゼクスは、息を呑む。

 唇が、重なった。


 王は、動かなかった。

 それだけで、十分だった。


 ◇ ◇ ◇


 レイシアは、王の胸元に手を添えた。

 人の気配が、まだ近くにある。

 それを、ゼクスは理解していた。

 回廊の向こう、柱の陰、温室の外――誰かが、見ている。

(……見せつけるための、舞台なのだ)

 影妃は意図的にこの場所を選んだ。王との密会を演出するために。


 影妃は、静かに立っていた。

 噂の中心にいる女とは思えないほど、背筋はまっすぐで、視線は澄んでいる。

 本当は、誰よりも、高潔な女だ。

 王はそれを知ってしまっている。

 影妃が近づく。

 細い指の感触が、王の頬に触れた。

 ためらう余地はない。

 これは芝居だ。

 王権のために、必要な口づけ。情ではない。

 睫が触れあう距離で、琥珀色の瞳が、一瞬、泣きそうに見えた。


 唇が、触れる。


 ざわめきが、確かに生まれたのを感じる。

 これでいい。

 これで噂は完成する。


 ――そのはずだった。


 離れようとした瞬間、

 指先が、彼女の体温を捉えた。


 細い。脆い。

 この女は、たったひとりで、すべてを引き受けて立っている。


(……なぜだ)

 理性が、警鐘を鳴らす。

 これは芝居だ。

 噂を完成させるための単なる演出だ。


 だが――

 影妃の指が、わずかに、王の衣を掴んだ。


 それが、引き金だった。


 口づけが、深くなる。

 意識せず、息を奪う。

 レイシアの体が、わずかに揺れる。


(……やめろ)


 王として、命じる。

 男として、止まらない。

 抗おうとする影妃の腰を強引に引き寄せる。

(だめだ)

 その瞬間。王は低くうめいて、顔を離した。

 唇から、つっと一筋血が流れる。

「・・・噛んだな」


「・・・なにを!」

 影妃の腕が、王の胸を押した。

 震えている。大きく潤む、蜜色の瞳。

「男の舌の感触にも慣れていない女が、どうやって王を誑かす」

 かっ、とレイシアの頬が紅潮した。

 ゼクスは、彼女から一歩距離を取った。

 呼吸を整え、仮面を戻す。


「芝居だ」


 自分に言い聞かせるように、言った。


「・・・承知しています」

 レイシアは、声が震えるのを、必死で抑えた。


 ゼクスは背を向ける。

(王として、正しい選択をした)

 なのに――

(男として、もう否定できないところまで来ている)


 噂は、王を自由にした。

 だが同時に、王自身を縛り始めている。

 元老院が十年かけて空洞化した王権を――

 たった一人の女が、内側から破壊し始めた夜だった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
 タイトル回収ですね。  それで「悪女」じゃなくて、「最悪の女」なのかー。なるほど。
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