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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第15話 噂

(……ああ)

 ゼクスの言葉を聞いた瞬間、クリシュナは、一切の迷いなく理解した。

「妻はすでにいる」

 それは、感情の告白ではない。誓いでも、情熱でもない。

 盤面を固定する宣言

 彼女の中で、盤上の駒が、音を立てて並び替わる。

 元老院への牽制

 婚約圧力の遮断

 正妃選定の無効化

 そして――影妃を「動かせない存在」にするための言葉


(なるほど)

 唇の端が、わずかに上がる。

 ゼクスは、誰よりも早く「詰み」を見ている。

 だからこそ、最短で、最も強い一手を打った。

(でも)

 クリシュナは、はっきりと確信する。

 それは勝ち手ではない。王は、影妃を「選んだ」のではない。

 影妃を逃がさない位置に置いただけ。

 それは――人を守るやり方ではない。

 駒にするやり方だ。

(ああ……)

 クリシュナの胸に、久しぶりに、本物の愉悦が湧き上がる。

 面白い。

 本当に、面白いわ。

 ゼクスは、自分が何を切り捨てたのか、まだ分かっていない。


 影妃の尊厳

 影妃の未来


 それらを、あの一言で、消してしまった。


(これは……)

 壊れる。

 そう、クリシュナは予感ではなく、確信する。

 影妃は、この言葉で、決定的に削られた。


 見事な黒髪が波打っていた。潤んだ琥珀色の瞳が意志的で美しかった。

 細い腰に白い肌、紅い唇。男を魅了するに足る、美貌と肢体。

 そして大鯨の献策の、才覚。

 王は堕ちつつある。あるいは、もうとっくに。

 なのに、無自覚にも、最も残酷な方法で逃げ道をふさいで閉じ込めた。

 守るつもりで、結果的には、影妃の尊厳をないがしろにした。

(なんて・・・愚かで、おもしろい)

 クリシュナは、楽しそうに、心の中で笑う。


 ◇ ◇ ◇


 昼下がりの陽光が、王宮奥の小さな温室に差し込んでいた。

  白い硝子越しの光はやわらかく、外界の政治的喧騒など、最初から存在しないかのようだ。

「今日は、いい茶葉が入ったの」

 クリシュナはそう言って、微笑んだ。

  金色の髪をゆるくまとめ、淡い色のドレスに身を包んだ姿は、まるで純粋無害な貴族令嬢のそれである。

 卓上には、繊細な磁器のティーセット。

  湯気とともに立ち上るのは、甘く、深く、どこか異国めいた香りだ。

「……恐悦至極に存じます、皇女殿下」

 オルフェンは、形式どおりに一礼した。

  だが、その表情は硬い。

(――なぜ、私が呼ばれた)

 彼は、この茶会の意味を測りかねていた。

  相手は未来の正妃候補。

  それも、元老院が推す最重要人物。

 そして何より――

  彼女の背後に控えている、あの老人。

「久しいの、オルフェン」

 ふぉっふぉっと、腰の曲がった小柄な老人が喉の奥で可笑しげに笑う。

 穏やかな声でそう言ったのは、クリシュナの老執事アビゲイルだった。

  白髪を整え、豊かな白髭をその顎に蓄え、杖を手に、好々爺然と微笑む。

  かつて王国諜報機関の頂点に君臨していた男のものとは思えない。

「……ご無沙汰しております」

 オルフェンは、短く答えた。

  師と呼ぶには、あまりにも多くを奪われた過去がある。

 はっきり言って、師匠は苦手だ。

「そう警戒しないで。ただのお茶会よ」

 クリシュナが、優雅な仕草で、紅茶を一口含む。

「アビィ、オルフェンを怖がらせてはだめよ。真面目な子なんだから」

 クリシュナは外見的には儚げな少女のように見えるが、実質は3つ年上の王の従姉である。

 昔はよく3人で遊んだ――が、どんな場面においても、最終的に陥れられ、辛酸をなめさせられるのは弟分の二人だった。

「おねえさま、と呼んでいいのよ。昔みたいに」

 ふふっと天使のような微笑みでクリシュナは言う。

 師匠も苦手だが、皇女はもっと苦手だ。虫唾が走る、といってもさしつかえないほどの嫌悪感を、オルフェンは感じる。

「ご冗談を」

「本気なのに」 

 そう言いながら、彼女は視線だけで侍女に合図を送る。

「失礼いたします」

 リゼルが、音も立てずに茶を注ぐ。美しい侍女だ。おそらく貴族の娘だろう。

  その手つきは完璧で、視線は伏せられているが――

  オルフェンは、彼女のわずかな緊張を見逃さなかった。

「リゼルの淹れるお茶は本当においしいわね。彼女はブラムス伯爵家のお嬢さんで、本来わたしとともに正妃候補のひとりだったのよ」

「・・・クリシュナ様の花紋の魔力にまさる者はおりません。わたくしなど」

「なにを言うの。あなたは王の側室にもなれる身分よ。わたしは子を成す役割には向かないから、そのうちあなたをゼクスに紹介しましょう」

 侍女は、ぽお、と顔を赤らめる。

「・・・ありがたきお引き立てでございます」

 オルフェンは、言葉が出ない。

(いったいこの方はなにを言っている?王にあてがう女を連れて入城した上、子を成す責務を放棄すると?未来の国母に最も近い立ち位置にいる方が?)


「ところで、オルフェン」

 クリシュナは、何気ない調子で切り出した。

「陛下は、ずいぶんとお疲れのようね」

「……戦から戻られたばかりですから」

「ええ、ええ。分かっているわ」

 彼女は頷く。

「王というのは、常に正しい判断を求められる立場ですもの。大変よね」

「……王の判断は、常に国のためです」

 慎重に、選び抜いた言葉。

 クリシュナは、満足そうに微笑んだ。

「そうよね」

 そして、少しだけ声を落とす。

「では―― 影妃の件も?」

 空気が、変わった。

 温室の中に満ちていた柔らかな光が、

  一瞬、刃に変わったように感じられる。

 オルフェンは、すぐには答えられなかった。

  沈黙は、ほんの数拍。

 ――だが、その数拍が、致命的だった。

「……影妃は」

 口を開いた瞬間、

  自分が“盤に足を踏み入れた”ことを、彼は悟った。

「陛下の判断を、揺らす存在です」

 言ってしまった。

 アビゲイルが、微かに目を細める。

  リゼルの唇が、ほんの一瞬だけ、歪んだ。

「王を想っての言葉なのね、軍師殿」

 クリシュナの声は、やさしい。

「分かるわ。 陛下のためなら、 “傷つく女がひとり増える”くらい、 受け入れるべきだと、そう考えているのでしょう?」

 オルフェンの背に、冷たい汗が流れる。

(……違う)

 違う、と言いたかった。

  だが、それを否定する言葉は、もう遅い。

 軍師は今、はっきりと自分の立ち位置を知る。

 王のために。

 国のために。

 その名目で、

  ひとりの女を、切り捨てる側に立っている。

「安心なさい、オルフェン」

 クリシュナは、紅茶を置き、微笑む。

「あなたは、正しいわ」

 その瞬間。

 オルフェンは悟った。

(……しまった)

 だが、もう遅い。

 温室の外では、 静かに、噂という名の水脈が動き始めていた。


◇ ◇ ◇

 

侍女リゼルは、温室を出たあとも、足取りを乱さなかった。

銀の盆を抱え、廊下を進む。


(……影妃なんて)


 先ほどの会話が、頭の中で反芻される。

「影妃は、陛下の判断を揺らす存在です」

 その言葉は、今も鮮明だった。

 あれは否定ではなかった。訂正でもなかった。

 “そう言える余地”を、軍師自身が与えたのだ。

(――やっぱり)

 リゼルの胸の奥で、静かな確信が芽生える。

 王の判断を曇らせる女。

 皇女殿下の前に立つ、最も不快な影。

 出自の卑しいあんな女より、わたくしのほうが、よほど側室としてふさわしい。

 クリシュナ様は、ゼクス様の子を成すのはわたくしの役目だとおっしゃってくださった。

 王の精悍なからだ、美しい青灰色の瞳。

 それを思うと、リゼルの胸はひそかに高まる。

 影妃は、邪魔だ。

(なら――消えるべき)

 だが、刃は要らない。

 血も、毒も、必要ない。

 女を壊すのに、もっと簡単な方法がある。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夕刻。

 リゼルは、侍女たちが集まる洗い場に立ち寄った。

「今日、皇女殿下のお茶会に軍師殿がいらしていたの」

 声は、あくまで何気なく。独り言のように。

「……え? オルフェン様が?」

「ええ。少し、深刻なお話だったわ」

 侍女の一人が、息を潜める。

「深刻って……?」

 リゼルは、ためらうふりをしてから、小さく息を吐いた。

「影妃様のこと」

 空気が、ぴんと張る。

「軍師殿、仰っていたの。影妃様は――“陛下の判断を揺らす存在”だって」

 ざわり。

 誰かが、思わず言う。

「……それって」

「ええ。王のご判断に、私情を持ち込ませる、という意味よね」

 言い切らない。

 断定しない。

 だが、聞き手の頭の中で、勝手に結論が補完される。


 翌日。

 今度は、厨房から。

「ねえ、聞いた?」

「影妃様って、王様にずいぶん執着してるらしいわよ」

「軍師様が問題視してるって」

「王の判断を“揺らす”ほど、だって」

 言葉が、変わる。

「つまり……」

「色で、惑わせてるってこと?」

 誰かがそう言った瞬間、噂はもう“真実”として歩き始めた。


 リゼルは、最後の一手を打つ。

 今度は、もっと下層へ。

 召使い、下働き、出入りの商人の耳に届く場所。


「最近、影妃様……よく娼館に出入りされてるらしいわ」

「まあ、娼館?」

「ええ。いかがわしい・・・淫らな場所」

 事実だ。

 影妃は街に出ている。

 人を集め、話をし、金を回している。

 だが、そこに意図を足す。

「……男?」

「さあ。何人も囲ってるって話も、聞いたけど」


 言葉は、濁る。そして想像だけを残す。



 噂は、変質した。

 影妃は王の判断を惑わせる女

 軍師も危険視している

 王に執着している

 しかし裏では夜ごとに娼館通い

 男女問わず幾人も恋人を囲っている。


人々は噂する。

王に〈妻〉と公言されながら、

それでも影妃は、夜ごと街へ出て、自由奔放に遊び歩いているらしい。

しかも、それを誰も咎めない。

王も、止めてはいない。

ならば――どういうことなのか。


「つまり、陛下も承知の上なのよ」

「王妃候補ならともかく、あれは“影妃”でしょう?」

「名目だけの妻、ということじゃない?」


人々は、もっともらしい顔で、うなずき合う。

王にとって影妃とは、世に示す〈正妃〉でもなければ、共に国を担う〈伴侶〉でもない。


必要なときに呼び、夜をともにし、それ以上の責任を負わない――

いわば、「王にとって都合のいい女」

ただ、それだけなのだ、と。


「大切にされているなら、あんな真似はさせないでしょう」

「貞淑であれと求められていない証拠よ」

「王が本当に愛しているなら、囲って隠すはずだもの」


そうして噂は、結論にたどり着く。


王に〈妻〉と呼ばれてはいるが、それは愛の証ではない。

ただの方便。ただの名目。


影妃は――王にとって、なにほどの価値もない、単なる夜の相手。


そうでなければ、

あれほど自由に、あれほど奔放に、放置されるはずがないのだから。


 侍女リゼルは、誰にも見えない場所で、微笑んだ。

(――これでいい)

 剣も、毒も使っていない。

 ただ、言葉を並べただけ。

 それでも。

 影妃は、孤立する。

 王のそばにいる資格を、疑われる。

 そして何より――

(陛下の耳にも、必ず届く)

 それが、狙いだった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


もし少しでも続きを気にしていただたなら、

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