第14話 傷ついた心
その言葉は、思っていたよりも、静かに落ちてきた。
「妻は――すでにいる」
音としては、驚くほど静かだった。
怒号も、悲鳴もなく、ただ貴族たちが息を飲む音がして、空気が一段、冷えただけ。
レイシアは、その場で瞬きもしなかった。
(……そう)
胸の奥に、重たいものが沈む。
確かに痛みはあった。
だがそれは、突然切り裂かれるようなものではない。
ずっと前から、ここに来ると知っていた場所に、ようやく辿り着いただけの感覚だった。
(私を選んだわけじゃない)
分かっている。
王の声には、迷いがない。甘さも、情も、含まれていない。
これは――愛の言葉ではない。
守るための宣言でもない。
王として、この場で最悪を回避するための、ひとつの判断。
それだけだ。
(……王は、王として動いた)
だから、「期待を裏切られた」とは思わない。
そもそも、期待など、最初からしていない。
王は〈影妃は王の妻である〉と、公言、した。
(……ああ)
胸の奥で、何かがすとんと落ちる。
喜びではない。高揚でも、救済でもない。
(・・・確定だ。私は、今この瞬間に、どこにも動かしようのない駒になった)
レイシアは即座に理解する。
ゼクスは、感情で言ったのではない。衝動でも、激情でもない。
これは――王としての宣言だ。
「妻」
その言葉は、愛する者を指す言葉ではない。
この場で使われたそれは、元老院に向けた政治的遮断であり、クリシュナへの明確な拒絶であり、王権による事実上の宣告なのだ。影妃は王妃の盾、と言われてきた。それがただ、今日この瞬間から「〈妻〉という名目の、王の盾としての女」になっただけだ。
影妃を守るという名分の裏の、冷酷なまでに合理的な判断。王として、正しい判断と言える。
(……だから)
レイシアは、自分が盤上のどこに置かれたのかを、即座に悟る。
選ばれたのではない。守られたのでもない。ただ、使われたのだ。王権の均衡を守るために。王が、正妃擁立を拒むために。元老院の手を止めるために。
それがレイシアが影妃として生きる場所を奪うことになると、おそらく王は気がついていない。
ただ、最適解の判断をしただけだ。
いわば王は、影妃をいやおうなく戦の最前線に差し出したのだ。
愛される女ではなく、王の決断を成立させるための切り札として。
盾として。境界線として。
(……残酷ね)
レイシアは静かにそう思う。
もし、これが恋情であったなら。もし、「お前が必要だ」と言われたなら。
あるいは、何も言わず、ただ手を引いてくれたなら。
それなら、どれほど救われただろう。
だが、王はそうしなかった。
「妻はすでにいる」
それは、選択を必要としない言葉だ。
そして同時に、レイシア自身の選択肢を、すべて奪う言葉だった。
(……なるほど)
レイシアは、心の中で、そう呟く。
贄として生きてきた。捨てられる前提で、ここまで来た。
ならば。
(それで、いい)
王の判断に組み込まれるのなら、最後まで、役目を果たすだけだ。
泣いて縋る女にはならない。選ばれることを待つ女でもない。
――王の決断を、利用する女になる。
そう定めた瞬間、胸の奥で、何かが静かに切り替わった。
レイシアは、顔を上げる。
そこにあったのは、動揺でも、悲嘆でもない。
いつもと変わらぬ、影妃の、不遜な微笑。
その微笑が、元老院の老獪な視線を、一瞬だけ、ためらわせた。
(……この女は、崩れない)
そう思わせるだけの、揺るぎのなさ。
「王が、そうおっしゃるのなら」
レイシアは完璧な微笑で王をまっすぐに見る。
「お望み通りの<王の女>を演じてさしあげましょう」
挑発するような声音でそう言って、レイシアは踵を返した。
◇ ◇ ◇
ゼクスに背を向けて、レイシアは歩き出した。そして、振り返らない。
誰かに引き止められる前に。王の視線が追いつく前に。
影妃として、完璧な歩幅で回廊を抜ける。
背筋は伸びている。
足取りも乱れていない。
それは、長年身につけた処世術だった。
扉が閉まる。
重い音が、ひとつ。
そこで、ようやく――歩みが止まる。
誰にも見られない回廊に出たとき、ほんの一瞬だけ。
指先が、わずかに震える。
「……っ」
声にならない息が、喉に詰まる。倒れはしない。床に手もつかない。
ただ、柱に背を預けるようにして、その場に立ち尽くす。
胸の奥が、じわじわと、冷えていく。
だが。
それだけ。
(――立て)
そう命じる声は、誰のものでもない。自分自身の声だ。
レイシアは、震えた指を、自分の掌で握り潰す。
涙はいらない。嘆く時間もいらない。
ここから先は――<選ばれなかった女>として悲劇の主人公に浸っている場合ではない。
王の決断を背負い、その上で生き延びる手だてを考えなければ。
影妃は、歩き出す。
泣き声にはならない。涙も、まだ落ちない。
ただ、胸の奥で何かが、確実に砕けた音がした。
(私が欲しかったのは……)
未来じゃない。約束でもない。
ただ「自分自身の意思」でここに立つことだった。
それだけが、なんの尊厳も許されなかった貧民窟の孤児の、たったひとつの誇りだった。
しかしそれも、今日、無残に打ち砕かれた。
(…王権の安定に比べれば、取るに足りない誇りだったのかもしれないけれど)
柱に背を預けたまま、レイシアは目を閉じる。
誰にも見られない。
誰も来ない。
ただ、ひとりだった。
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