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背中に花を刻まれた影妃は王を手玉に取る最悪の女になる  作者: 春野まゆき


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第13話 正妃候補クリシュナ

 王宮の大広間は、金と硝子の光で満ちていた。

 舞踏会が開催されるという告示が出されたのは、数日前だ。実質は、正妃候補の皇女たちの品定めである。王の帰還を寿ぎ、国の安寧を祈る――そういう名目の下で、元老院が「正妃」を“確定”させようとする夜である。

 王が戦場から戻る日程に、ひと月後の冬至節の祭祀。

 その合わせ目に、正妃選定を縫い込む。

 ゼクスの視線の先には、元老院の老人たちが、微笑みという仮面を揃えて並んでいる。

 祝辞の言葉は丁寧だ。だが、その眼差しだけが露骨だった。

「今宵はよき夜でございますな、陛下」

「……そうだな」

 ゼクスの返答は短い。

 この会場の誰よりも、彼は静かだった。


 天井から垂れた無数の灯火が、磨かれた床に星座のような反射を落とし、列席する貴族たちは口々にささやきあう。

(…ついに、正妃が?)

(実質の婚約披露だろう。いったい、どちらの皇女様が王の妃に?)

(影妃は、今夜で終わりだろう)

(惜しい女だが……使い道はいくらでもある)

(下賜か、政略か。どのみち、王の手は離れる)

 下卑た視線が、値踏みするようにレイシアをなぞる。



 ゼクスは玉座の背に肩を預け、静かに広間を見下ろしている。

 手元の杯を、ぎり、と握りしめる。甘い香の立つ酒が、今夜はやけに粘ついて感じられた。

(あの女は、なぜ何も言い返さない)

 そしてこんなにもはっきりと、影妃への侮辱を不快に感じる自分自身への、自覚。

「さすが影妃ですね。この程度の侮辱にはなんの反応もしない」

 玉座の後ろに控えていたオルフェンが、あなたと違って、と諫めるように言う。

 下卑た視線で影妃を見るのが許せない。…というか、だれの目にも触れさせたくない。

 その感情が、考えるより先に胸を締めつけた。


「好き勝手なことをいってくれるわね」

 広間の片隅に、静かにたたずんでいたレイシアは、不愉快そうに言う。

「無礼すぎます。…下賜など」

 地方安住もなければ、貴族の妾として下賜されるなどという選択肢などあるはずもない。噂好きな貴族たちの下卑た視線や侮辱を、レイシアは鼻で笑う。

「レイシア様は仮にも王の妃なのに」

 ミラが憤慨する。

「形式上よ。なんの意味も価値もない」

 楽師たちの曲の音が変わった。


 と、ふいに、強い力がレイシアの腰を引き寄せた。

「!?」

 ミラがほっと安堵の笑みをもらす。

 王ゼクスである。貴族たちのどよめきが、さざ波のように広がる。

 ゼクスは有無を言わせず、レイシアの腰に手を回した。

 抗議の言葉を発するより早く、楽師の合図とともに曲調が変わる。

 ざわめいていた広間の空気が、潮が引くように動いた。

 貴族たちは無意識のうちに道を空け、ふたりを包む円を描く。

「――な、なにを」

「舞踏会だ。中央に立つのが王の役目だろう」

 そう言って、ゼクスは半歩前に出る。

 その動きに引かれるように、レイシアもまた歩を進めざるを得なかった。

 磨かれた床の中央。

 灯火の光がふたりを照らし、視線が一斉に集まる。


 遠目に、軍師オルフェンが苦々しい表情でこちらを見つめているのが見えた。

 ――よりにもよって、この夜に。

 その視線に、ゼクスは気づいていたが、振り返らなかった。


「な…なんですか?」

「舞踏会だぞ。踊るに決まっている」

「お断りしま…!」

「傷に障らないようリードしてやる。力を抜いていろ」

 ゼクスは有無を言わさずレイシアの手を取り、もう片方は影妃の腰を支える。

「お前は痩せすぎだな」

「…余計なお世話です!」

 楽師たちが音楽を奏でる。

 ゼクスは慎重にレイシアの傷を気遣いながらステップを踏む。

 通常なら支点となるはずの位置を、わずかに外し、傷に触れぬ角度だけを選び取って身体を導く。

 歩幅は、影妃の呼吸に合わせて調整される。

 一歩進めば半歩引き、旋回の瞬間には腰を支える手の圧を抜く。


 まるで――踊っているのではなく、

 壊れやすい器を抱えて移動しているかのように。

 彼女がほんのわずかに息を詰めただけで、次の拍は即座に緩められる。


 周囲には優雅な舞踏に見えるだろう。

 だが実際には、王は戦場と同じ集中力で、ひとりの女の“痛み”と対峙していた。


(……この女は、こんな脆いからだで、背花の痛みを耐えていたのか)

 影妃のからだの輪郭を感じながら、そう思った瞬間、胸の奥に走る感情を、ゼクスは乱暴に踏み殺した。


 貴族たちが、ほぅ…とため息をつく。

「ずいぶん、女の扱いに手慣れていらっしゃる」

「それなりにな」

 何人の女性と、王はこんなふうに踊ったのだろう。

 かつて、大勢の恋人がいたと聞いている。

 所詮、王の女などというものは、王にとっては取るに足らない存在なのかもしれない。

 名を与えられ、抱かれ、そして忘れられる。

 そこに特別な感情など、はじめから存在しない。

「遊び」ですらない。

 政治と欲のはざまで、情を持たぬまま消費される一夜。

 どれほど多くの女が、そうして王の夜を通り過ぎてきたのだろう。

 ――そして、その列に並ぶことを拒みながら、こころの奥底ではそれを望んでいるかもしれない自分自身を自覚するとき、影妃の胸の奥は、焼けるように痛んだ。


 踊りながら、低い声で、ゼクスはレイシアの耳元にささやく。

「なぜおれの贈ったドレスを着ない」

「私は王の女ではありませんから」

「王の女を演じるほうが、お前にとってむしろ安全だと思うが」

「いったい何人目の女ですか。あなたにかつて大勢恋人がいたことは存じ上げています。…随分と、多くの方と踊ってこられたのでしょうね」

 ゼクスが言葉に詰まる。

 曲が転調する。ふたりの距離はさらに密着する。

「…ちょっと、まて。なぜそんなことを」

 言い訳できない。が、それはひどく荒んでいた10年以上も前の話で、恋人などではない。正直に言えば、顔も名前も覚えていない。通りすがりの、行きずりの女たちとの情事だ。

「自分から求めたことはない」

「来るもの拒まずということでしょう。さぞかし大勢<王の女>がいたのでしょうね」

 逃げ道をふさいでいる。一撃で切りつけてくるような鋭い語気だ。

「恋人がいたことはない。…女たちとは、顔もおぼえていない関係だ」

「聞いてあきれますわ。それを“誠実”だとお思いなら、王とはずいぶん都合のいい生き物ですね」

「影妃」

 王の青灰色の瞳が、レイシアをからかうように捉える。

「まさか、嫉妬を?おれの昔の女遍歴に?」

 かっ、とレイシアの頬が紅潮する。

「…ちがいます!」


 曲が、終わる。

 その時。

 広間の入口、重い扉が、音もなく開いた。

「皇女クリシュナ様のお見えでございます」

 ざわめきが、止まる。


 開いた扉の向こうに立っていたのは、光の精のような王女だった。

 雪解けのように淡く、冷たく、そして鮮烈な光。


 金色の髪が、灯火を受けて薄い絹のように透ける。

 肌は磁器めいて滑らかで、折れそうなほど細い首筋が、真珠の鎖に縁取られていた。歩みは静か。だが一歩ごとに、空気が変わる。

 そして――瞳。

 青灰の虹彩に、銀の光が宿っている。

 王家の血脈の者だけが持つ、神秘的な瞳。ゼクスと同じ色だ。

 ただ温度が違う。

 王ゼクスの瞳は、ろうそくの芯に燃える青白い炎に似ている。最も高温で、苛烈だ。しかし王女の瞳には温度がない。氷の底を覗くような冷ややかさが、微笑みの奥に澄み切っている。その瞳には、期待も不安もない。

 あるのは――結果をすでに知っている者の余裕だけだった。


「……皇女クリシュナ」

 誰かが名を呼んだ。

 それは祝福というより、畏れに近い吐息だった。

 人々は囁く。

 ――ゼクス様と「色」を分け合って生まれた双星。あの方が…

 ――王と従姉君は、同じ天の欠片を持つ。

 ――運命のおふたりだ。この婚約は、最初から決まっていたのだ、と。


 ゼクスは、心の内で嗤った。

(星?)

 違う。

 この女は、星ではない。

 触れればこちらの手が裂ける――刃だ。


 クリシュナは広間の中央まで進み、可憐な仕草で膝を折った。

 しかしゼクスの内心には、幼い頃の記憶が爪を立てる。


 ――笑いながら、世界を壊す女。


 クリシュナが顔を上げ、ゼクスを見た。

 銀の光を帯びた青灰色の瞳が、まっすぐに王を見つめる。

 その瞬間、唇がほころぶ。

 まるで天使の微笑みのように。


「お久しぶりです、陛下」


 声は甘い。

 甘いが、そんな媚態ではごまかしきれない程度には、ゼクスはクリシュナを知りすぎている。


 祝祭の音楽が、遅れて広間に流れ込んだ。

 弦の震えは華やかで、だがどこか計算され尽くした旋律だった。

「未来の王妃候補でいらっしゃる、クリシュナ皇女様です」

 老練な元老院議長の声が、大広間に響いた。

 ざわめきは起こらない。

 代わりに、誰もが息をひそめた。


 正妃――

 正式な擁立ではない。

 だが、この瞬間、未来の国母が誰であるかは、すでに示されたも同然だった。


 ゼクスは一瞬、視線を伏せた。

 そして、静かに顔を上げる。

「……ずいぶん急ぐな」

 その低い声に、空気がひときわ張り詰める。

 議長は微笑みを崩さない。

「じきやってくる冬至節は国家最大の節目です。そこで天下に知らしめなければ。陛下の帰還、神脈の安定、そして――王家の未来。民に示す“象徴”が必要でしょう」

 象徴。

 都合のいい言葉だ、とゼクスは思う。


「では、わたしはこれで失礼いたします」

 固い声で、レイシアはひそやかに、はっきりと言った。影妃の出番は終わったのだ。

 邪魔者は消えなくては。

「退出は許さない。ここにいろ」

 レイシアを背にかばうように、ゼクスはクリシュナに向き合った。


「わたくしは、いつでも陛下のお傍に」

 クリシュナが一歩、前へ出た。

 その動きは完璧だった。計算も、ためらいもない。

 ドレスの裾がわずかに揺れ、金色の髪が灯火を反射する。


「こうして並び立つことが、皆の安心になるのなら」

 甘い声。

 柔らかな言葉。

 だがゼクスの耳には、まるで違う響きで届く。

 ――ほら、逃げ場はないでしょう?

 ――世界は、あなたの意思より先に動くのよ。


「……変わらないな」

 ゼクスが、ぽつりと呟く。

 それは誰に向けた言葉でもないようで、確かに彼女だけに届いた。


 クリシュナは、くすりと笑った。

「失礼ですね。成長した、と言ってくださらない?」

「性格の話だ」

「ひどい」


 そう言いながら、彼女は王の前に手を差し出す。

 白い指。細く、折れそうで――それでいて、捕まれば二度と離れられないと本能が警告する指。


「踊ってくれるでしょう、ゼクス?」


 名を呼ぶ声は、あまりに自然だった。

 王としてではなく、昔の呼び方で。

 広間がざわめく。

 オルフェンの眉が、ほんの一瞬だけ動いた。

(――よりにもよって、この方なのか)

 王はどうやら本気で影妃に惚れている。それも問題だが、さらに上回る事態。

(最悪だ…またひとつ頭痛の種が増えた。)

 ともかく今夜だけは波風を立ててくれるな、と祈るような気持ちで、軍師は幼馴染のふたり――ゼクスとクリシュナを見つめた。


 ゼクスは、しばしその手を見つめたまま、動かなかった。

 幼い日の記憶が、否応なく浮かぶ。

 ――ねえ、ゼクス。

 ――世界ってね、面白いのよ。壊れるときの音が。

(……相変わらずだ)

 だが、彼は手を取らなかった。

「断る」

 短く、明確な拒絶。

 元老院の誰かが、息を呑む音がした。

 クリシュナは驚いたように目を瞬かせ――

 次の瞬間、まるで何事もなかったかのように微笑んだ。

「まあ」

 その笑みは、あまりに完璧だった。

 拒絶された“傷”など、微塵も見せない。


「昔から、あなたはそう。いちばん肝心なところで、いつも逆を行く」

「学習しただけだ」

「誰から?」

 クリシュナの瞳が、わずかに細まる。

 探るように、測るように。

 ゼクスは答えなかった。

 答える必要がないと思ったからだ。

「……でも、だからこそ、あなたはおもしろい。…では」

 クリシュナは手を引き、優雅に一礼する。

「ダンスはまたの機会に。

 今宵は、久しぶりに陛下のお顔を拝見できただけで恐悦至極に存じますわ」

 その言葉に、元老院がほっと息をつく。

 “失敗”は回避された。そう判断したのだ。


「ところで、陛下」

 クリシュナが、何気ない調子で、しかしおそらく計算され尽くしたタイミングで、言う。


「あなたがその背に隠していらっしゃるのは、お噂の影妃かしら?」

 その瞬間。

 ゼクスの中で、何かが、はっきりと音を立てて切り替わった。

「よろしければ、影妃様に、ご挨拶を」

「――必要ない」

 声が、低く落ちる。

「そう?」

 クリシュナは、興味深そうに首を傾げる。

「町では“神殺しの女”などと囁かれていますわ。ずいぶんと……おもしろそうな方」


 オルフェンが一歩、前に出ようとして、踏みとどまる。

 ここで口を挟めば、火に油だ。


 ゼクスは、静かに言った。

「噂は、噂だ」

「噂は、事実より雄弁よ」

 クリシュナは微笑む。

 その瞳の奥で、何かが愉しげにきらめいた。

「それとも――」


 一拍、置いて。

「もう、“決めて”いるの?」

 ゼクスは、真正面からクリシュナを見た。

 王としての威圧が、自然と場を支配する。

「……勘違いするな、クリシュナ」

 その声は、はっきりしていた。

「おれは、お前との婚約のためにここに立っているわけじゃない」

 広間が、完全に静まり返る。

「妻は――」

 一瞬の間。

「すでにいる」

 息を呑む音が、いくつも重なった。


 オルフェンの背に、冷たい汗が走る。

 元老院の老神官たちの顔色が、一斉に変わる。


 そして――

 クリシュナだけが。

 心から、楽しそうに笑った。

「……ああ」

 銀の光を帯びた青灰色の瞳が、愉悦に細められる。

 小さく息を吐くように、クリシュナは笑った。

「やっぱり」

 その声は、祝福でも、怒りでもなかった。

「最高ね、ゼクス」


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


もし少しでも続きを気にしていただたなら、

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