第12話 神殺しの女
王宮の廊下は、静寂そのものだった。
昼とは違う、夜の宮殿は巨大な獣の腹の中のようにひっそりと息づき、灯りは最小限に絞られている。
赤毛の仔猫を胸に抱きしめ、レイシアはひとり、長い回廊を歩いていた。
半月がのぼる夜。月明かりが、かろうじて王宮の窓から廊下の床を照らしている。
(もうじき、冬至節がやってくる)
冬至節は、1年のうちで最大の国家祭祀だ。即位後はじめて王が戦場から帰還し、この日に合わせて、正妃選定が進められていることを知っているのは、元老院とごく一部の諜報機関のみである。
だが、影妃となって数年、あらゆる手を尽くして王宮や街中に情報網を張り巡らせてきたレイシアの耳に、その報せが届かないはずがない。
ノアは冬至節の祭祀の準備のために神殿に籠もり、王の側近たちはそれぞれに役目を負って、大鯨の処理と交易拠点の準備のため、セト岬へと向かった。
王の政務はさらに苛烈になり、夜更け影妃を訪れることも、ぱたりと止んだ。
(自分で望んでおきながら・・・さみしいなんて)
自嘲気味にレイシアは笑う。赤毛の仔猫の、翡翠色の瞳が影妃の顔を見上げた。
「馬鹿だわ」
なんて、身の程知らずで愚かな女なのだろう、と、自分でも思う。
宮殿にあがる前の、まだ少女の頃。
想うのは自由だと、どこかで信じていた。
遠く離れた場所で、戦場に追いやられた青灰色の瞳の公子様の無事を願うこと。
美しい母君と、新しい名前をくれた優しい少年が、いつでも幸せであるよう願うこと。
それだけは、自分が持てるわずかばかりの尊厳の、最後の砦のばすだった。
けれど本当は、許されるはずもなかったのだ。
贄として捧げられた影妃が、王を想うことなど。
いま、王宮でレイシアを拘束する者はいない。
(……いまのうちに、やっておかないと)
生き延びることができるかは、分からない。「影妃」は必ず、死ななければならない。しかし、一縷の可能性にかけて、準備を。
レイシアが王宮の散策にかこつけて歩き回っているのは、ただの気まぐれではない。地図を作るためである。
彼女が描こうとしているのは「王宮の地図」。と言っても、公式な図面ではない。
――隠された脱出経路を記した地図である。
“正妃擁立”が現実となった日、影妃は、処刑される。
その未来に備えて、レイシアは静かに歩みを進めていた。
たとえ自分自身は逃げ切れなくとも、せめてミラだけでも逃がしてやれるかもしれない。自分に連座させられて傷つく者がいないよう、手を打たなければならない。
影妃の離宮から執務室、議場、宝物庫へ続く長い回廊は、王の魔力が通う“主脈”の上に築かれているため、結界が強く、迂闊に近づけば警備兵が即座に動く。
ふと――月明かりに、白い影が浮かび上がる。
「……ラスエル?」
若い地脈師が、回廊の角に立っていた。
面紗の下の薄紅の瞳が、わずかに揺れる。
月明かりに照らされるラスエルと出会う。
「セト岬に向かったとばかり思っていたわ」
「ノア様に、確認したいことがあり、いったん戻りました」
ラスの声は、相変わらず鈴を曇らせたように淡い。
レイシアは、じっと彼を見つめた。
「すごく背が伸びたのね。・・・あんなに小さかったのに」
その一言に、ラスの耳の億で、遠い日の響きがよみがえる。
◇ ◇ ◇
――食べて。冷めないうちにね。
湿った石の匂い。
陽の差さない地下。
鉄格子の向こうから、ふわりと漂ってくる温かな気配。
神殿の地下に幽閉されていた幼い頃、
“神に選ばれた異端の子”として、ラスは外界から切り離されていた。
毎夜、足音を忍ばせ、階段を降りて来る小さな影があった。
灯りを布で覆い、光が漏れぬように細心の注意を払いながら、
格子の隙間からパンやスープを差し入れてくる少女。
少女は影妃候補のひとりだった。
痩せて、くすんだ髪に艶もなく、いつも粗末なぼろ布を身にまとっていた。ただ肌の色ばかりが蝋のように白い。生まれつき色素のない自分の透ける白さとはちがう、乳白色の美しいた肌だと思った。琥珀色の瞳は、澄んだ炎を宿していて、ラスエルはその少女の冴え澄んだ「音」にいつも聞き入っていた。
レイシア、という名だと知ったのは、ずいぶん後になってからだ。
彼女は他の幾人かの少女たちとともにこの神殿に捧げられた「供物」だった。
だが、彼女だけ、他の少女たちとは「音」が違った。
恐怖に震える音ではなく、
哀れみでも、施しのための優越でもない。
――生きて、ここから出て。
――あなたの耳で、世界の音を聞いて。
変わっていない、とラスは思う。
(あのときの音と……同じだ)
何重にも倍音が重なった、深く調和のとれた音。心地よいい、共振。
今もなお、目の前の女の「音」は、神々の音にさえ干渉しうる強度と深度で、響き続けている。
ラスは、薄紅の瞳を伏せた。
(やはり、あなたは――神脈を殺しうる女だ)
“神殺しの女”。
その予兆のような言葉が、喉元までせり上がる。
しかし、飲み込む。今、口に出してはならない気がした。
◇ ◇ ◇
翌朝。
王宮の回廊に、影妃の鈴の音のような薄い笑い声が響いた。
「まあ、退屈ね。このまま離宮で腐って死ぬのは御免だわ。久しぶりに王宮を見て歩きたいの。案内して」
レイシアは、まるで突然思いついたかのように侍女たちへ命じた。
筆頭侍女のミラは、心配そうな顔つきでレイシアを見る。
背花の痛みがおさまっていないのを、ミラだけが知っていた。
侍女たちはひきつった笑みで従う。
ぼそぼそと、小声で、不満げな囁きが漏れる。
(また始まった・・・最近はおとなしくされていらっしゃったのに)
(今日はどんな難癖をつけてくる気かしら)
気まぐれで我儘な影妃、という評判は、すでに都中に広まっている。
──だが、その実。
レイシアの視線は、天井の梁、窓の高さ、衛兵の立ち位置、通路の角度に至るまで、その奥行きと距離を冷静に測り取っていた。
(この階層は外に面した回廊……夜になれば、音が抜けやすい)
(西側の廊下は人通りが薄い。見張りの兵士の交代の時間も記録しておかなくては)
足音が刻む一歩一歩が、「影妃処刑」後の脱出計画という“地図”を静かに描いていく。
表向きは――徹底して傲慢極まりない悪女の芝居だ。
「ここの光、最悪ね。わたくしの顔色が死んで見えるじゃない」
衛兵は困惑し、侍女たちは慌てて取り繕う。レイシアはその反応すら利用するように、口元だけで笑った。
「王宮の美術品、どれだけ価値があるのかしら。場所を移せばもっと映えるものもあるでしょう?」
美術品の前に立つふりをして、壁の厚みをこっそり指で叩く。
音の響きから、裏に空洞がある場所を探っていく。
「影妃様がまた難癖を……」と震える侍女を横目に、今度はずかずかと庭園に出る。
「まぁ。手入れが甘いわね。王宮の庭として恥ずかしくないの?」
影妃の視線は、塀の高さ、排水路の向き、足場の状態を的確に捉える。
(ここの塀は低い……雨で削れている。夜なら越えられる)
(排水溝は王都へつながる。人ひとり通るのは難しいけれど、物資なら流せる)
「影妃様は本日もご機嫌麗しく……」
侍女の乾いた声を、レイシアは涼しげに受け流す。使用人たちの控えの部屋にも、足を踏み入れる。なんの前触れもなくやってくる影妃に、侍女たちは蒼白になる。
──だがレイシアは、もちろん侍女など眼中にない。
控え室の奥、洗濯場の裏。
そこにある裏動線の扉の形、鍵穴の種類、人の出入りの時間――それらを丹念に拾っていく。
レイシアはその場にしばらく佇み、回廊を風が抜ける音を聴く。
(午前と午後で交代がある……夜間はほぼ無人)
(ここが“抜け道”のひとつになる)
◇ ◇ ◇
王妃の間の前で、レイシアは立ち止まる
そこは王宮で唯一、レイシアが「近づかない」と決めている部屋だ。
胸の奥に、古い傷が疼くような感覚。
なぜ痛むのか、まだ自分でもわからない。
侍女が問う。
「影妃様? どうかなさいました?」
「……いいえ。行きましょう」
王妃の間。
未来の正妃が、いつか住まうはずの部屋。
王と王妃が、語り合い、くつろぎ、睦み合い、からだを休める部屋だ。
影妃が侵してはならない。
そう言って微笑むが、その笑みは影のように儚かった。
(影妃は……王の未来に触れてはいけない)
レイシアは踵を返し、そのまま王の執務室の前を通り過ぎようとした。
「すいぶん楽しそうな巡視ごっこだな」
背後から声がした。
壁に寄りかかりように立って、王がこちらを見つめている。
おそらく、寝る間もないほどの激務にさらされているのだろう。
無造作に乱れた髪が、青灰色のゼクスの瞳に影を落としている。
「おれの部屋は素通りか」
「王の私室に興味はありません」
いつもの調子であしらうと、ゼクスは短く息を吐いた。
「離宮を移れ」
ざわっ、と侍女たちがどよめく。
「今、なんと?」
「離宮を移れ、と言った」
「王宮を出て行けという意味ですか?」
「おれの近くに部屋を移せという意味だ」
レイシアの瞳が、驚きで見開かれる。
「執務室の隣の部屋を空けた。調度品は準備している最中だが、なるべく早くそこに居を移せ」
侍女たちにどよめきが走る。
(執務室のとなり?)
(それって、王妃の間より王の私室に近いお部屋では?)
(陛下は影妃を・・・?)
(夜にお召しになるおつもりなのかしら?)
憶測が一気に膨らんでいく。
レイシアは震えそうになる声を必死に抑えて、言う。
「お断りします」
凛とした声音が、静寂を裂く。
「あなたの庇護など必要ありません」
◇ ◇ ◇
昼下がり、王の私室。
「そんなに会いたいのかよー」
ひさしぶりに人型にもどった獣人族の少年が、広いソファの上でごろごろ転がりながら言った。
「会いに行く暇もないから、もう近くに影妃の寝室を作ってしまおうって?そういうこと?
うわー、強引ー」
ゼクスは書類から視線を上げずに答える。
「影妃の身の安全の確保だ」
大鯨の件での献策により、このままでは、元老院に命を狙われる可能性がある。
「そんなん、口実だろ」
ジンは思い切り伸びをして、にやにや笑う。
「黙れ。…おまえこそ、ずいぶん離宮で遊んでいたな」
「だって影妃はきれいだし優しいしメシもうまいしさー。ていうかさぁ。自分の仕事、忘れてたとか思ってるだろ?」
「違うのか?いい気なものだな。新しい名前までもらって、さぞ嬉しいだろう、ミクシイ?」
「なんだよ、嫉妬かよー怒るなよゼクスー。ちゃんと<観察>してたんだってば」
「影妃から溺愛されてゴロゴロ嬉しそうに喉を鳴らしているネコごときに、もはやなんの情報提供も期待してないがな」
「怒るなよゼクス―」
王は、書類に走られていたペンを、かたり、と置いた。
「影妃は、なんのために王宮の巡回を?」
「いちゃもんつけて楽しむためだろ」
そんな女ではないと、とうに知っている。
「真面目に答えろ」
「地図」
「なに」
ジンの瞳から、ふざけた色がすっと消える。
「・・・たぶん、地図を作ろうとしてる。視線の動きで分かる。距離、重さ、人の流れ。
兵士の配置も、交代の時間も、かなり正確に把握してる。塀の高さ、裏動線、排水路……ぜんぶ測ってる」
「……逃げるためか」
「たぶん」
ジンは、尻尾があるかのように、空中で足先をぱたぱたと揺らした。
「“影妃処刑”の後。誰かを逃がすつもりか、自分も生き延びるつもりか。そこまでは、まだ分かんないけどさ」
ゼクスは黙り込む。
影妃が“生き延びる”という選択肢を、完全には捨てていないという事実が、
胸の奥で鈍い痛みと、奇妙な安堵のようなものを同時に呼び起こした。
「ゼクス」
ジンがひょい、と身を乗り出す。
「会いたいなら、会いに行けばいい。オマエが無理強いすればするほど、影妃は遠くなるぞ」
ジンの笑みは、時折ひどく老成していて、人間よりも獣に近い。
生きたいと願う者と、失いたくないと願う者の匂いを、彼は本能で嗅ぎ分けていた。
「影妃は、“神殺しの女”になるかもしれないぜ」
ぽつりと、誰にも聞こえないほどの声で、ジンがそう呟いたことを、
このときのゼクスは、まだ知らない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
もし少しでも「続きが気になる」「この先を追ってみたい」と思っていただけたら、
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更新は【週3回】予定です。
影妃と王の関係が、ここから大きく動いていきます。




