第11話 影妃の献策
お読みいただきありがとうございます。
影妃としての役目は、
光の届かない場所でこそ試されます。
楽しんでいただけると嬉しいです。
夜気が静かに満ちる離宮の寝所には、薬酒の匂いが細く流れて漂っている。
背花の激しい痛みに耐えきれないとき、影妃は、数種のハーブをアルコールで煮詰めた薬酒を服す習慣になっていた。
レイシアの露わな白い背に、ノアが薬膏を丁寧に塗り重ねながら、眉根を寄せた。
「・・・痛むでしょう」
「慣れているわよ。それに、あなたの調合した薬酒はよく効くわ」
でも、とレイシアは淡く笑う。
「治りが遅いわね。・・・そろそろ、限界が近いのかしら?」
刻印師の紫紺の瞳が、重く影を帯びた。
「レイシア様」
「そうなのね」
それ以上、ふたりは、なにも言わず互いの息づかいで会話する。
刻んだ者と、刻まれた者の間にだけ許された距離感で、ノアとレイシアはお互いを気遣い合う。清潔な綿布が、レイシアの背に当たられ、熱をもった花紋に丁寧に重ねられていく。
そして、処置が終わる頃。
「ねぇ、ノア」
「なんでしょう」
「民は、困っているでしょう?」
ノアの手が止まった。
大鯨の死骸が海岸に漂着したという噂は、影妃の離宮にも届いていた。
むろん、神官であるノアはすべての情報を熟知している。
「……セト岬に、大きな鯨が打ち上がったのです。本来、鯨は死ぬと深海へ還り、生態系の循環に寄与する存在。
それが陸へ上がったということは――循環が破れている証左です。鯨は海の王であり、それが陸へ倒れる、ということは、自国の王権の失墜の前兆とも捉えられます。実際、腐敗がすすめば、疫病の危険性も出てくるでしょう。魚群の位置が狂い、漁が滞り、食糧難になるかもしれない」
「大鯨の漂着は、王の代替わりの兆しということなのね。王にとっては、はた迷惑な風評でしょうね。…元老院はなんて?」
「迅速に封印・焼却すべきだと」
「ノアもそう〈よむ〉?」
「…さて。象位としてはそうなるでしょうね。しかし」
「しかし?」
「解釈は、無限です。どの要素を組み合わせて象位を解くのかは、〈よむ〉人間の積み上げた力量や知見によります」
「そうよね」
ふ、とレイシアは含みありげに笑った。
不敵にも見える影妃の微笑みを、ノアはふわりと受け止め、言う。
「あなたは、どう〈よむ〉のです」
「鯨……」
レイシアは目を伏せ、しばし考える。
「必要なのは、迅速な焼却、ではなく、迅速な回収、よ」
「…というと?」
「資源化するのよ。油も、骨も、皮革も…すべて、産業になる」
ノアは目を丸くする。
「鯨の油は灯火に、骨は工芸に。海獸の皮は武具にもなる……岬は交易の起点になれるはず」
琥珀色の瞳が、輝きを増す。確信をもってレイシアは続ける。
「民に、仕事が生まれる。神脈の巡りが途切れたというのなら、別の形でつなぎ直せばいい」
ノアは、影妃を凝視する。何千年も積み重ねられてきた森羅万象を解く知識も、統計も、目の前の娘には適わない。その潔さと、発想の見事さに、ノアは思わず感嘆する。
「また、お金儲けのことを考えているのでしょう」
からかうような響きで、意味深にノアは言う。ただ黙って死ぬのをまっているだけの影妃ではないことは、百も承知である。悪女という仮面の裏で、レイシアがひそかに積み上げてきた準備と計画を、ノアは見て見ぬふりをしている。
「生き延びるための布石よ。…まあそれも、わたしのからだが持ちこたえられれば、の話だけど」
その言葉に、ノアは何も言えなかった。
レイシアの真意を、あえて知らぬふりをする。
「…どこに策を流しますか。・・・元老院へ?」
「いいえ。神殿は動きが鈍い。大鯨の腐敗が始まる前に、すぐにとりかからなければ手遅れになってしまう」
「…では?」
「今、最も苦境にある者。王に策を差し上げましょう」
ノアの表情が曇る。
「王には借りがあるわ。私としたことが、不覚にも、果物や衣装をいただいてしまった。見舞いの気遣いも。そこにどんな意図があるにしても、受けた恩は返さなければ」
(すべて、返して、そして、終わりにしなければ)
王の声、王の眼差しに、封じた心の奥底が、確かに揺れた。
揺れたからこそ── ここで終わらせる。
あくまで政治であると、レイシアは思い込もうと試みる。
そうでなければ、自身の弱さが露呈する。
(もう、これ以上……関わらないために)
折しも、王宮からは、いよいよ正妃選定が始まるとの報せが舞い込んでいた。
終わりは、きっと近い。レイシアは息を吸う。
「ノア、支えてくれる?歩くのも少しきついの。陛下の執務室へ行くわ」
痛みをこらえて立ち上がった影妃の肩を、銀髪の刻印師の長い指が、そっと触れた。
◇ ◇ ◇
「影妃様。政務中に突然気まぐれに王を訪ねてこられるのは、無礼というものです」
王の執務室の前で、歯に衣着せぬ物言いで、軍師オルフェンは言う。
レイシアの肩を守るように支えて付き添っている神官は、静かに軍師を見返した。
「無礼、とは?そちらこそ、立場をわきまえていないのでは?」
目の前の銀髪の神官は、神殿の後継者と目されている人物である。将来王と対置する権力を約束された人間だ。むろん、軍師は神殿の権力構造とその構成員の階級を熟知している。しかし、軍師オルフェンにとってゼクスは友であるとともに敬愛する唯一無二の王である。
(…王が、揺れている)
その原因が影妃であることは明白である。王の手に負えない女がいることも驚きだったが、さらに始末が悪いのは、下卑の出自の一介の女が、王の判断を曇らせるほどに、その心を掴みつつあることである。ラスの報告によると、影妃の境遇は同情に値するものであることはたしかだ。しかし、同情や憐憫で女ひとりにかかずらっているわけにはいかない。王国の命運を左右する政務の妨げになるほどの価値はないと、軍師は冷静に判断している。
「何事だ」
執務室の裏庭に面した長い回路から、ゼクスが歩いてくる。が、しかし、神官の目は、その後ろの、影のように控えて従っている人物のほうを先に捉えた。色素のない、夜に浮かぶ羽虫のような存在感の青年だ。絹の面紗は、おそらくきわめて精緻な顔立ちであろうその半分を覆い隠している。
ノアが口を開こうとしたとき、レイシアが先にその名を呼んだ。
「ラスエル・・・生きていたのね」
レイシアの口元に懐かしげな笑みがもれる。
ノアは眉をひそめた。
(ラスエルが戻ってきた・・・なぜ、今になって)
「知り合いだったか」
ゼクスは視線をレイシアに向ける。
だが、レイシアは目を合わせず、儀礼に則って丁寧に王への礼を返した。
「傷の具合は?」
王の問いに、影妃は答えない。
影妃に寄り添うように支える神官が、かわりに答えた。
「まだ傷は癒えておりません。それゆえ、わたしがお供を」
(その男には、触れるのを、許すのか)
ゼクスのなかの火種がくすぶり始める。その燻りが、はっきりと嫉妬という形を取りつつあるのを、王自身も自覚していた。
「陛下。ご恩を返す機会をいただきたく存じます」
まっすぐ、突き放すように、影妃が言う。
ゼクスの胸奥がかすかな苛立ちと怒りでひりつく。
「……恩?」
「過分な贈り物やお見舞いの品をいただきました。ささやかですが、その礼として」
すべてを、返さなくては。
すべての縁を。
「大鯨の漂着。これを利用して、経済の血脈を繋ぐ策を――陛下に献じます」
◇ ◇ ◇
執務室に足を踏み入れるなり、薄い羊皮紙を広げると、レイシアは均整のとれた文字で書き連ねられた策を示した。
「大鯨は災禍の象徴。だからこそ、国に還す恵みとすることができます」
ゼクスの眉がわずかに動く。
「……詳しく話せ」
レイシアは淡々と説明を重ねる。
「鯨肉を塩蔵し、冬季の食糧難を救う。脂は灯火油に加工、夜間労働と市場拡大に寄与。
骨と髭は武具・装飾品として高値で取引する。残滓は肥料とし、干ばつ地域の農地回復へ。
漂着地に臨時市場を設置し、交易の活性化を図ります。鯨一頭で、町をひとつ生かすことができるのです」
「……交易の活性化か」
「はい。中央の統制ではなく、民が自ら循環を作る仕組みを作るのです」
銀の光を孕んだ、ゼクスの青灰色の瞳が、深くレイシアを見つめた。
「どこでこんな知見を?」
「……昔、少し。わたしの出自はとうにお調べでしょう。貧民窟には、平民が忌避して決して手を出さない仕事ばかりが回ってきました。死んだ獣の解体、油の抽出、骨の洗浄、皮革の下処理……。正規の職に就けない者たちは、闇市で、拾ったもの、死んだ獣、腐りかけの穀物などを〈使えるものに変える〉 ことで生活していました。腐敗の進み具合で何が使えるか、どこを切り分ければ価値が出るか・・・子どもの頃から嫌でも覚えさせられます」
ゼクスは、胸の奥に得体の知れない衝撃と疼きを覚える。
つい数刻前、軍師は影妃を「政治の駒」と切り捨てた。しかしいま、目の前の女は──政治の駒などという、矮小な概念には到底収まらない。その才覚は希有であり、得がたい女だ。
「……影妃」
呼ぶ声が、かすかに震えた。
(手放すことはできない。ならば、側に)
羊皮紙をなぞるレイシアの白い指先に、王はおもわず触れる。
びく、という女のかすかな衝撃が伝わる。ゼクスはすぐに手を引いた。
ノアの目が険を帯び、そのまま神官は影妃の腰に回した手で女のからだを守るように引き寄せた。
影妃に近づきすぎた王を避けるためか、それとも別の意図か。
ゼクスは、ぎり、と神官を見据える。
頑なな影妃が、不調のからだを預けられるのは、この神官を全身全霊で信頼しているからだ。
(・・・この、苛立ちは、なんだ)
オルフェンがうなるように言う。
「見事です。しかし・・・この策、実行すれば──元老院は必ず反対するでしょう。“災厄の象徴”を民の市場に持ち込むなどと」
「だからこそ、陛下が宣言なさるのです」
レイシアは静かに告げた。
「災いは、恵みに変えられると。
循環が断たれたなら、民の知恵で新しい巡りを紡げばよい、と」
「……民の知恵、か」
「はい。これは王の力ではなく、民の力で国を支える仕組みです。
それが、いま最も必要とされていること」
ゼクスは影妃の瞳の強さに息を呑む。
刺し貫くような鋭さと、深さ。
そんな両極を併せ持つ女がいることを、王はこれまで知らなかった。
オルフェンが、ようやく声を絞る。
「……影妃様。これは国家規模の改革に等しい。軽々しく口にしてよいことではありません」
「軽々しくなど申しておりませんわ、宰相殿下」
レイシアは微笑む。挑発的ともとれる、優雅な声音だった。
「わたくしは、陛下に借りを返しているだけです」
「〈返済〉のために策を差し出すのか。・・・元老院を敵に回すことになるぞ」
ゼクスの声は低く沈む。
(ならば、側に置いて、守るのみ)
静かな決意が、ゼクスの腹に落ちる。
「……これを実行すれば、セト岬は一時的にせよ王都以上の賑わいを見せるでしょう」
オルフェンが羊皮紙を覗き込み、冷静に言葉を紡ぐ。
「地方の市場が肥大化し、中央の権威が相対的に弱まる。元老院は、まずそこを問題にします」
「権威より先に、民の飢えをどうにかすべきです」
レイシアがすっと言葉を挟む。
「死骸は待ってはくれません。腐敗が始まれば、それこそ本当に“災厄”になりますわ」
「影妃様は、急かすのが上手い」
オルフェンは皮肉げに笑った。
「……陛下。これは賭けです。けれど、筋は通っている」
ゼクスは、羊皮紙から視線を離さないまま、静かに口を開いた。
「セト岬を臨時の交易拠点とする。
鯨の解体と加工は、王直属の監督下で行う。
市場の許可証は、各地の商人や工房に制限付きで発行しろ。
収益の一部を国庫に、残りを岬と周辺地域の復興に充てる」
オルフェンが片眉を上げた。
「王は決断がお早い」
「迷う理由がない。放置すれば災いでしかないものを、恵みに変えられると言うなら──
その可能性に賭けるべきだ」
ゼクスの視線が、真っ直ぐレイシアを射抜いた。
「この策、預かった。セト岬へ向かう使節団に、地脈師ラスを同行させる。現地での神脈の揺らぎを見極め、必要とあらば追加の策を講じろ」
「かしこまりました、陛下」
ラスが面紗の下で静かに頭を垂れる。
「……大鯨の音を、しかと聴き届けてまいります」
オルフェンも小さくため息をつき、肩を竦めた。
「王命とあらば、わたしは最適な布陣を敷くだけです。ただし、影妃様」
視線がレイシアに向く。
「万が一この策によって王の立場が危うくなった時、あなたも無傷で済むとはお思いにならぬように」
暗に、元老院側への寝返りを牽制しているのだ。
「承知しております」
レイシアは涼しげに微笑んだ。
「王を影妃の連座になどさせません。わたしひとりの罪として背負って死にましょう。もともと、長く生きる予定はありませんので」
ゼクスの喉が、ひくりと鳴った。
「勝手なことを言うな」
低く落ちた声に、レイシアはわずかに目を瞬く。
「陛下?」
「おまえは、まだ王の魔力を受け止めている。
影妃としての役目を果たしているうちは……死ぬことなど、許さぬ」
(許さぬ?)
その言葉に、ぐらりと心が揺れかける。
レイシアは慌てて内側からその動揺を押し殺した。
「王の許可など不要です。……いずれ、正妃が擁立されれば、わたくしのお役目は終わります」
自分自身に言い聞かせるように、レイシアは淡々と告げる。
「だからこそ、今のうちに借りは返しておきたいのです。
果物も、衣装も、慰問も──そのすべてを、相殺いたしましょう」
「相殺?」
ゼクスは、一歩踏み出した。
ノアの指が、反射的にレイシアの肩を支える。
その細やかな仕草が、ゼクスの神経を逆撫でする。
二人の「近さ」に、 胸奥が焼けるような感覚を覚えて、王は拳を握る。
「影妃」
その声は硬い。
「おれが贈ったものは、お前にとって〈借り〉なのか」
「では、なんと呼べばよろしいのです?」
レイシアは、かすかに首を傾げる。
「情、とでも?それこそ誤解を招きますわ。
わたくしたちは所詮、どちらも政治の駒。同じ盤上に立っているだけのこと」
ノアが静かに目を伏せる。
オルフェンが険しい顔で腕を組む。
かつて――貧民街の最奥、
陽も差さぬ路地の片隅で、息だけを細々とつないでいた頃。
その年、貧民窟では疫病が蔓延した。
治療も隔離も行われず、〈穢れ〉とみなされた子どもたちは、“感染源ごと焼却すべし”と、兵に囲まれていた。
大人たちは逃げ散り、泣き叫ぶ幼い子らの声だけが、煤けた小屋にこだました。
仕方のないことだ、と誰もが思っていた。
卑しい貧民には、価値がないのだと。
そのとき──ただ、ひとりだけ。
「おやめなさい!子どもに火を放つなど、王家の名に泥を塗る行為です」
澄んだ声。王家の側室の声だった。何度も貧民窟に足を運び、年寄りや重病人を世話してくれた、そのあたたかな声。
反論しようとした兵士の前へ、ひとりの少年が、躊躇なく歩み出る。
まだ幼いのに、躯には獣のような気迫が宿っていた。
「母上。この子たちは僕が連れて行きます」
貧民の子どもたちの中から、すすけた少女が押し出される。
痩せすぎて骨ばった腕。灰をかぶった髪。
力のない琥珀色の目だけが、大人びた諦めの色をしていた。
少年はその髪に触れ、そっと整えた。
「怖かったね。もう大丈夫」
少女はうまく声が出せず、ただ震えるだけだった。
少年は続けて問いかけた。
「君、名前は?」
貧民窟で産み落とされた子どもたちに、名前はない。大抵は、外見的な特徴で呼ばれる。顔にアザのある子は〈豹〉(サニム)、小柄の子どもは〈粒〉(キャニ)、そして灰と埃にまみれた少女は、〈灰〉(レイス)と。
「……灰」
価値のない名前。名前、とも言えない、蔑称。
体内に籠もる病の熱と、恥ずかしさで、少女は口ごもる。
「……レイ・シア?
“光の子”か。
きれいな名前だね」
少女は言葉を失った。
その名は、誰からも与えられたことのない“生きるための価値”だった。
その一言が、少女にとって世界の形を変えた。
――ゼクス様。
あのとき、〈穢れ〉として燃やされるはずだった少女の命。
あのとき与えてくださった名も、救ってくださった命も。
(もうすぐ、すべて、お返しいたします)
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