第10話 大鯨の兆し
お読みいただきありがとうございます。
影妃としての役目は、
光の届かない場所でこそ試されます。
楽しんでいただけると嬉しいです。
窓から執務室へ足を踏み入れた瞬間、 闇の奥から声が落ちた。
「おかえりなさいませ、陛下」
軍師オルフェンだった。
ゼクスは眉をひそめる。
「……いつから居た」
「あなたが窓を開けられたところから、ずっと」
銀縁眼鏡の奥の瞳が笑っていない。
「初犯には見えませんね。あまりに手慣れている」
「政務は怠っていない」
「ええ、まったく。これ以上ないほど手際よく、完璧に政務を執行されておられる。さては、政務の後になにか大切なお約束でも?」
軍師の声には鋭い棘がある。
すでに何もかも把握したうえでの、追及だ。
「女に会いに行く時間を確保するために睡眠を削ってまで激務をこなし、私にさえ知らせず、ツヴァイにも黙って、夜ごと影妃と逢引ですか?」
「だれが逢引だ」
「そう見えぬほうが不自然です」
皮肉をかみ砕くような声音だ。
そして、オルフェンの笑みが消えた。
次の一言は刃だった。
「いっそ堂々と訪問なさいませ。
影妃が陛下の御手に落ちた──元老院にそう思わせるべきです」
ゼクスの拳が握られる。
「利用するつもりで見舞っているのではない」
「ではなんのおつもりですか。陛下ともあろう方が、ご自分の振るまいが悪手であると分からないのですか。篭絡の計はあくまで影妃の他勢力への寝返りを演出するためのもの。秘匿するなら政治効果は皆無です。影妃はあくまで戦略上必要な札。政治の器です。あなたの心を満たす器ではない」
空気が一瞬で凍りつく。
「王の女にしろとは申し上げた。影妃の男に成り下がれとは言っていない」
「…なんだと?」
空気が凍りつく。
剣の抜き身が擦れ合う寸前。
オルフェンの声が、冷たく落ちた。
「遊びならば止めません。だが、心を引き渡してはならない」
「…ただの見舞いだ。孤児院の慰問に無理に同行させたのはおれだ」
「では、そのような逢瀬は控えた方がよろしいでしょう。誰にも言わずに夜に忍んで女を訪ねるなど、まるで本当の〈秘め事〉のようですよ」
陛下、と軍師は声を落として続けた。
言い含めるように。警告するように。軽はずみを咎めるように。
「これはあくまで計略です。政治の均衡を崩すために、おんなひとり篭絡するための。ミイラ取りがミイラになってどうするのです」
「なっていない」
「どうだか」
「オルフェン!」
「陛下!」
ゼクスが軍師を一喝するのとほぼ同時に、オルフェンも王を鋭く諫めた。
「目を覚ましてください。あなたは王家を継承する血脈の方。いずれ選ばれる正妃とともに国を治める方です。遊びならいくらでも女を囲えばよろしい。女に堕ちるのも時には悪くないでしょう。しかし、心を引き渡してはなりません。わたしはあなたの軍師として、この国の次期宰相として、王の変容を許容したおぼえはありません」
「ふざけるな・・・」
ゼクスが言いつのろうとした時、控えめに執務室の扉が開いた。
「おふたりとも、声が響きますよ。言い争いはそのへんにしといてください」
ツヴァイが割って入る。
居心地悪い沈黙を切り裂きながら、肩をすくめた。
もともと、王と軍師は幼い頃からともに育った幼なじみの間柄である。お互いのことがなによりもよく見える。
「陛下を好きなのはわかりますが、言い過ぎですよ、オルフェン様」
いつもなら受け流すツヴァイの揶揄を、しかし今日は、軍師の瞳は鋭さを増すだけだった。
「笑い事ではない。
この王宮では油断した瞬間に命を奪われるのです」
ゼクスは黙した。
オルフェンの警告の鋭さを知っているからこそ。
「言い争いはあとです。もうじきラスが戻ります。報告を聞かねば」
ツヴァイに促され、空気がわずかに動いた。
◇ ◇ ◇
執務室の扉が、再び叩かれた。
空気がぴんと張り詰める。
「報告に参りました」
鈴を曇らせたような声だ。
気配がほとんどない。音ひとつ立てず、地脈師ラスは、王の執務室へ足を踏み入れた。
夜の帳に溶けるような白い髪に白い睫毛、薄い瞳。その下で揺れる薄紅の瞳の視覚は、きわめて弱く、その顔の半分以上を影のような面紗が覆っている。体は細く、中性的で、手足は長い。その肌は薄く、光に照らされれば崩れてしまいそうなほどの脆さだ。
静かに膝を折る所作は、まるで何かの儀式を見ているようだ。
「──遅かったな、ラス」
ゼクスがそう言うと、面紗の奥で細く笑った気配がした。
「日暮れを待ちました。昼の姿は、あまり長く保ちませんので」
ラスの声は柔らかい。
だがその柔らかさが、逆に冷たい。ラスの肌は、日光に極端に弱い。ゆえに、日中は髪と瞳の色を変えている。夜に見るラスの姿は、闇に浮かび上がる甲虫(羽虫)のようだ。視力はほとんどない。しかし、失われた視界のかわりに、ラスの耳は人や大地の振動すなわち地脈や血脈の音を聴き取ることができるのだ。
「王都の西、セト岬にて──大鯨の死骸が漂着したと。すでに、民のあいだでは噂になっています」
オルフェンが眉を寄せる。
「大鯨……?あれは数十年に一度現れる、神脈の象徴だ」
ラスは静かに頷いた。
「海の王たる鯨が、還るべき深海へ戻らず陸へ上がった……
これは、循環の断絶。国家規模の凶兆です」
ラスの声は澄んでいるのに、どこか震えていた。
「王の神脈と大地の霊脈が狂っている。その歪みが、海をも乱している」
視力をほとんど持たぬ代わりに、彼の耳は神脈のざわめきを聴く。
「このままでは、災いは増幅します。王と影妃の均衡が保てていないのです」
ゼクスの眉がぴくりと動く。
「……不吉の兆か」
ゼクスは低く呻くようにつぶやく。
その瞬間、ゼクスの脳裏に、影妃のえぐられた背花の傷がよみがえった。
血に濡れた、蝋のように白い肌。神殿の刻印師の指先が描く、術式。その指が、影妃の背に触れる。ゼクスの胸の奥に、何かがくすぶっていた。
王が即位とともに継承した絶大な魔力は森羅万象を流れる神脈となり、正妃の正紋を循環点として大地を巡る。正妃が擁立されるまで、その役目を負うのが影妃の偽紋である。その「巡り」に、詰まりが生じているのだ。
(……まだ、影妃のケガが完治していないからか)
神脈が詰まれば、地脈は痩せ、災いが自然の象位となって現れる。
ラスは静かな声で続ける。
「おそらく、凶象はつづくでしょう。すでに、水源の汚染や干ばつが各地から報告されています」
「思いのほか、影妃の背花の回復が遅れているようですね」
ツヴァイが言う。
「遅れている、ならまだいいが・・・」
オルフェンが、言いつのる。
「もしこのまま回復しなかった場合、影妃交代もあり得るのでは」
その瞬間、ゼクスの横顔を見たツヴァイがぎくりと息をのんだ。
「影妃交代?」
ゼクスは低くつぶやく。
「任を果たせぬ駒は去るのみ」
「オルフェン様、言い過ぎですよ」
ツヴァイが制するが、軍師は淡々とした声音で続ける。
「任を解かれれば、王都から離れた地で静かに暮らせるはず。陛下もこれ以上惑わされずにすむでしょう」
「・・・影妃は歴代処刑される運命です」
ラスの静かな断定に、その場の空気がい一瞬で凍り付いた。
「なに?」
ゼクスの声が掠れる。
ラスの薄紅の瞳が、面紗越しにまっすぐにゼクスを見る。
「影妃に与えられる自由は役目の間だけ。偽紋は一生、痛みを伴います。
衰弱と狂気の果てに──処断されるのが影妃制度の真実なのです」
ツヴァイは歯を噛む。
オルフェンでさえ、沈黙した。
「背花は神紋の写し。影妃は、王家の急所を知ってしまう者。生きて野に放つには…あまりに危険です。すなわち、影妃交代は、死を意味します。影妃は《役目を終えた途端、消される》のが、制度としての正しさですから」
ゼクスは息を忘れた。何かが、胸の奥で崩れる音がした。
拳が、白く軋む。
「おれに今、それを告げた理由は」
ラスは静かに面紗を揺らした。
「わたしは兆しを視る者。滅びの音が聞こえるなら、告げる責務があるのです」
それは責める声ではなかった。ただ、事実だけを突きつける声である。
だからこそ──重かった。
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