05. わがまま
最近、やたらと紬が聞いてくる。
「玲衣…今日も遅い?」
毎朝これだ。
時間空いてるなら……待ってるだけじゃなくて、少しでもバイトのシフト、入れてくれればいいのに。
紬は、一度、コンビニの店長を怒らせてクビになったことがある。
何をしたらそうなるんだか。
「…玲衣?」
紬は不安な様子で、首すじのキスマークを引っ掻いている。
「何でもないよ、バイトだから…ごめんな」
そう言って、ボロアパートの扉を開けて、俺は『外』に出る。
通学定期で都心に出て、巨大な駅構内で人波に紛れると、自分の歪みが目立たなくなる気がする。
五限の講義が終わると、バイトではなく、駅の反対側の出口を目指す。
「おーい!玲衣っ!」
いつもの満面の笑顔。
俺は彼女と会うため、ここで待ち合わせをしていた。
胸の前で小さく手を振って応える。
友人として会ってるだけで、後ろめたさなんて…別にない。
「子供んとき以来だな、水族館なんて」
屋上に上がるエレベーターの中で呟く。
「え?うそ!玲衣は今までどういうデートしてたわけ?」
そういえば、紬とデートなんて…したことない。
二人分のチケットを買って、入り口でコードをかざす。
目の前に広がる青に、息を呑んだ。
――へぇ。
館内は蒼く涼しげな色で満たされてる。
魚が向きを変えるたび、きらきらと輝いて。
明るくもなく暗すぎもしない。
「心地いいな…」
「ね」
彼女が俺の腕をそっと掴む。
心は何とも思わないのに、頭がそれを受け入れる。
周りの人たちは、俺を見て、彼女を連れた普通の男だと思うんだろうな。
そのまま、手のひらに指が当たると二人同時に指を絡め合う。
――俺は、一体何をしてるんだろう。
すると、彼女はせっかく結んだ手をパッと離すと、大きな吹き抜けの水槽の方へ駆けていく。
「玲衣、みて!ちっさいエイがいる!」
――エイ…?
「あ―…、確かにかわいいな」
「ね!こいつだけ小さい、まだ子どもかな」
彼女が顔いっぱいの笑顔で俺を見る。
多分、人として、一緒にいるのが落ち着くんだと思う。
彼女の明るさというか、前向きなエネルギーに癒されている自分がいる。
それから、洒落たレストランで夕食をとる。
金なんて無いのに、カッコつけて奢ってみせて馬鹿みたいに思う。
夜の繁華街を駅まで歩く。
また、手が重なり合う。
だめなのに、楽な方に流されてしまう。
女である彼女に恋愛感情を持てないのに、彼女の気持ちを裏切って、普通の皮を被って気持ちよくなってる。
紬にだってそうだ。
男の俺に恋愛感情なんて持てないはずなのに、俺は、紬にあんなことを……させている。
いつからこんな最低なやつになったんだろう。
「――ねぇ、もう…駅着いちゃうね」
「うん」
「わがまま言ってもいいですか?」
そう言うと彼女は立ち止まり、俺は怪訝な顔をする。
「何だよ、食い足りなかった?」
冗談を言うと、彼女が笑う。
繋いだままの手をそのままに、彼女は俺と向かい合うと、めいっぱい背伸びをして唇を触れ合わせた。
ほんの一瞬なのに、顔が熱くなる。
そういえば、俺……紬とはまだキスしてない。
何で今、そんなこと、頭に浮かぶんだろう。
…
――帰って紬に謝りたい。
帰りの電車にひとり揺られながらまどろむ。
生活に疲れてた。俺ばっかり身をすり減らしてるって思ってた。
でも――俺がいちばん、逃げている。
彼女からも、紬からも…。
……
玲衣が、玄関を開けると、部屋の奥から灯りが漏れているのが見えた。
「…おかえり」
六畳間の襖を開けると、いつものように控えめに微笑む紬。
その表情を見てふっと息が抜ける。
――よかった。
何がよかった、だよ。
玲衣は心の中で悪態をつく。
「……遅かったね」
「うん。ちょっと、バイト先で色々あって」
「俺、風呂入ってくるから」
「……うん」
洗面台の上に、脱いだ服を無造作に置く。
それから、念の為、スマホの上に脱いだシャツを被せた。
シャワーの音が聞こえると、紬は薄暗い廊下から洗面台を見つめる。
衣服が、まだ温かい。
上からそっと触れると、硬いスマホの感触。
紬が手に取ると、画面が光る。
パスコードは知らない。
ただ、通知は見れる。
紬の指が止まる。
ほんの数分前、アイコンの中で女性が笑っている。
――今日は死ぬほど楽しかった!次も二人で――
紬はスマホをそっと元の場所に戻した。
浴室の戸が開く音。玲衣の足音が近づく。
濡れた髪をタオルで拭きながら襖を開け、「紬、起きてる?」と柔らかい声が落ちてくる。
紬は座卓を前に座ったまま、振り返らない。
息を殺して、小さく震える指をぎゅっと握りしめる。
「何だよ、どうした?」
「……玲衣、女の人と仲良くしてるの?」
紬が玲衣を一瞥する。
玲衣の顔に、焦りと苛立ちが同時に浮かぶ。
「何それ……俺のスマホ見たわけ?」
声が裏返る。
「そういうのじゃないし、向こうから勝手に――」
「じゃあ、なんで嘘つくの」
部屋沈黙が落ち、玲衣が息を吸う。
「……説明するから――」
「しなくていい」
紬はテーブルに両手をつき、次の瞬間、思いきり叩きつけた。
「ふざっけんなっ!!」
乾いた音が部屋に響く。
ペンが跳ねて落ち、麦茶のポットが倒れる。
「おい、やめろよ!周りに聞こえるだろ!」
「俺だって!本当は今頃っ、大学に行ってたんだ!」
紬の喉が裂けるように震える。
「俺がっ!どういう気持ちで――玲衣と、あんなことしてたと思ってるんだよっ!!」
全身から絞り出すように怒鳴っても、まだ足りなくて。
手近にあったグラスを掴んで玲衣に向かって投げた。
「あ…」
頬に当たって、重い音がした。
唇の端から血が溢れて、押さえた指の間から滴る。
「……ってぇ」
玲衣が睨みつける。
その目を見た瞬間、
紬の中で何かが焼き切れる音がした。
視界が暗転する。
優一郎の顔。
押さえつけられた床の冷たさ。
殴られるときの鈍く沈む音。
「あ…ぁ…ごめんなさい…」
喉の奥から掠れた声が漏れる。
「お願い……殴らないで!…やだ、許して……」
涙が勝手にあふれてくる。
崩れ落ちて、床に散らばった物を掴んで投げる。
「殴るなんてしない!いいから、落ち着けよ!」
「来るなっ!来るなああっ!!」
全身で叫び、喉が裂ける。
玲衣の顔が滲んで、世界がぐしゃぐしゃに歪んでいく。
玲衣は紬の腕を掴み、暴れる身体を必死に押さえつける。
「落ち着け……俺だよ、紬!」
紬の爪が腕に食い込み、引っ掻き、皮膚を裂く。
――どうしよう、俺、これ以上抱えきれない。
玲衣はただ紬を強く抱きしめるしかなかった。
「……やだ……やだよ……」
「大丈夫だ、ここにいる」
玲衣の声が震える。
紬の荒い息が、次第に啜り泣きに変わっていく。
嗚咽の合間に、小さく息を吸うたび、玲衣のシャツに濡れた涙の跡が増えていく。
紬を静かに解放する。
隣の部屋から、壁を叩く音が響く。
二人とも、そちらを見なかった。
紬は項垂れたまま、ぶつぶつと呟いている。
「どうしよう…どこも行くとこ、無くなっちゃう…」
玲衣はゆっくりと紬の前にしゃがみ込み、
口の端についた血を指で拭った。
「ごめんな」
その声は優しくて、弱々しい。
「俺が悪かった」
紬は俯いたまま、嗚咽を噛み殺す。
お互いに汚れて、壊れたところを曝け出して。
どうして俺たちは、こんなに歪に出来ているんだろう。




