03. 擬態する
朝、俺は上手く振る舞えるだろうか。
あれは、五月に入る頃。青々とした蔦の絡むキャンパス、憧れの大学生活……のはずなのに。
俺はまだ人がまばらな大教室で、ひとり飯を食っている。
食べ終えると、講義が始まるまで机に突っ伏して寝たふりをする。
プラスチックのタッパーにごはんと少しの副菜を詰めただけの弁当。
正直、貧乏臭くて恥ずかしい。
友達がいないのはそれだけが理由ではないけれど。
俺の悪いクセだと思う。
家に帰れば紬がいるし、愛想良く普通に振る舞うのが面倒くさい。
昔はそうじゃなかった。
高校を途中で転校することになった頃からだろうか。
なんか、俺……初めて会った時の紬みたいだな。
あいつも一袋に何個か入ってるパンを少しずつ食べて、机に顔を伏せていた。
小遣い、貰ってなかったんだろうな。
ため息をつく。
憧れの大学生活、これでいいのかよ、俺。
そのとき、女子のグループが賑やかにお喋りをしながら、俺の座る列の方へやってきた。
俺は警戒して、弁当を手で隠すようにやり過ごす。
なのにやつらは俺のすぐ前の席に座った。
教室の長机の前後は窮屈で、女子たちの後ろ髪と少し汗ばんだ首もとがすぐ目の前にある。
キラキラしてるな。
髪を染めて、着古してなんていないきれいな流行の服を着て、髪を揺らすたびに何か甘い香りがふわっと広がる。
「ねぇ、遥香」
そのうちの一人が、ちらっと俺を振り返って、真ん中の女子に耳打ちする。
何だよ…。
白米の最後のひと塊りを口に入れる。
「……近衛くん、だよね?」
真ん中の子が振り返って俺を見てる。
――誰だっけ……。
箸を持つ手が止まる。
「英語の授業一緒のクラスだよね」
「私、本望遥香っていうんだけど…ま、覚えてないか!」
そう言って彼女は眉を下げて笑った。
それから、何となく俺の周りには彼女がいた。
基礎ゼミの班分けや必修科目の講義……それにこうして昼休みになると、俺の隣に座ってる。
これには本当に困ってる。
何となく、タッパーに詰めた白米を持っていくのをやめた。
購買で買った大きいサイズのおにぎりを少しずつ口に入れる。
「近衛くんは、食細いよね?」
「え?……ああ、そうかも」
金が無いだけだけど……。
「私なんて結構食べるから、今ダイエット頑張ってるんだ」
俺は隣の彼女を見る。
「……細いと思うけど」
だるっとした大きめなシャツを着てるけど、多分痩せてる方だと思う。
彼女の瞳がパッと色づく。
「そんなことないない!全然太いから」
恥ずかしいと言いながら両手で頬を包む。
「あ、あのさ。近衛くんはどんな子がタイプ?」
タイプって……紬みたいな男だけど。
女子のタイプなんて分からない。
俺は彼女の容姿をまじまじと見ながら言う。
「髪が長くて、ふわっとした服が似合う人…?」
キャンパスのほとんどの女子が当てはまると思う。
それなのに、彼女は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
それから、つまらないなと思いながら見始めた、あの恋愛ドラマ。
彼女は俺をサークル仲間だとか、学部の友達だとか、色んなやつらに紹介した。
気付けばチャットアプリの『ともだち』がスマホの画面をスクロールするほど増えて、気が合いそうな友人も出来た。
180円のおにぎりをやめて、仲間が集まる食堂に顔を出す。
「近衛の班、基礎ゼミの発表準備進んでる?」
「いや――」
「こいつ、本望さんと同じ班だもんなぁ」
仲間が俺の腕を肘で小突く。
「元気で可愛いのに頭も良いしな」
「近衛!お前いつ告るの?」
そんなんじゃないって。
でも、コイツらには俺と彼女がそういう風に映ってるんだなって思うとこそばゆい。
優越感っていうか。
「玲衣!」
振り返ると、彼女が眩しいほどの大きな笑顔で俺の名前を呼ぶ。
男連中の恨めしそうな目が俺に突き刺さる。
「今日の夜、ゼミメンで集まるよっ」
彼女が俺の両肩を叩きながら言う。
「ごめん、俺バイト」
えーっなんて言って、むくれる。
「お前バイトやり過ぎじゃね?」
仕方ないだろ。俺が稼がないと飯が食えないんだから。
「玲衣は、お金貯めてしたい事でもあるの?」
「……いや、別に」
仲間が不思議そうな目で俺を見る。
「じゃあ、仕方ない、か」
彼女が大きく手を振りながら早足で女子のグループへ戻っていく。
その日の授業が終わると、深夜までバイトをする。
まだ、明日のレポートが終わらないのに。
アパートの扉を開けると、紬はすでに寝ているようだった。
薄明かりの部屋には空の布団がひとつ。
窓際の座卓には無造作に寄せられた紬の勉強道具に……ラップが掛けられたひとり分の夕飯が置いてある。
ふっと肩の力が抜ける。
紬が愛おしい。
翌朝。
俺は今日も上手く『普通』を演じられるだろうか。
そう思いながら布団を抜け出し、顔を洗う。
紬が眠そうに目を擦こすりながら洗面台を覗いてきた。
「おはよう、今日は早いんだね」
紬が小さく微笑む。
「うん、一限から授業あってさ」
「そっか……今日もバイト?」
「うん」
紬が俺のTシャツを掴んで背に額をつける。
「何だよ、寂しいのか?」
冗談めかして言う。
「俺も、もう少しバイト入れるから……」
部屋を出るとき、紬はいってらっしゃいと微笑みながら、小さく手を振っていた。
大学の食堂前のベンチで寝転ぶ。
蔦の日除けが初夏の日差しを遮ってくれる。
微睡んだ瞬間、頬に冷たさが走る。
水が結露するペッドボトルを手に、悪戯に笑う彼女の顔があった。
「今日の夜は大丈夫なんだよね?」
「うん、今日はバイトないから」
紬にはバイトだと言ったけど。
二人で校舎に向かってベンチに座る。
「玲衣って、彼女いる?」
唐突な問いに俺は眉をひそめて彼女の顔を見る。
「ねえ、いるの?」
「いないよ」
『彼女』はいないから嘘じゃない。
「なんで?」
俺は答えを知ってるのに、尋ねた。
「玲衣ってカッコいいのに、そんな素ぶりないしさ。
何でだろうな〜って思っただけ」
「別に、格好良くなんてない」
「カッコいいよ……優しいし」
彼女は足を前後に揺らす。
彼女の顔を見れなかった。
「今日さ……愛莉も磯崎くんも用事できたって」
「二人で発表の資料、準備しちゃってもいいかな?」
彼女の気持ちを知っていて、断るなんて。
そんな酷いこと……俺にはできなかった。
その日の夜更け、アパートに戻ると、珍しく部屋の灯りが付いていた。
「玲衣……!」
六畳間から紬が出てくる。
目が少しだけ赤く充血している。
泣いていたのか、夜更かしのせいなのかわからない。
「バイトおつかれさま。
こんな時間だけど……ごはん食べる?」
紬は台所に立つと俯いて、しばらくの沈黙のあとぽつりと呟く。
「今日は……遅かったね」
紬は俺のちょっとした変化にもよく気付いて、勝手に自分を責める癖がある。
別に、やましい事をしていたわけじゃない。
なのに何で、こんなに胸が重苦しいんだろう。
罪悪感?何もしてないのに。
俺は、紬の行く手を塞ぐように狭い台所に立つ。
「玲衣……?」
今まで守っていたものを、放り出してもいいと思った。
ただ紬と繋がりたい。
そうしたら、この重苦しさも何もかも消え去って、二人で気持ちよくなれる気がする。
「紬、口でしていい?」
「…………は?」
紬の瞳が、信じられないものを見るように揺れた。
明かりを落とした台所で、互いの呼吸だけが響く。
刺激に抗うように、紬は後ろ手でシンクの縁を必死に掴む。
俺は膝立ちし、紬の下半身を手で扱きながら先の方を口に含む。
もう完全に理性が溶けてしまった。
あんなに恐れていたのに。
どうせバレてるんだから……もうどうでもいい。
ただ紬を気持ち良くさせたいだけ。
そうすれば、次もあるかもしれない。
「玲衣……やだ」
紬が固く目を瞑り、震えるように絞り出す。
そんなことをしても、欲情を煽るだけなのに。
舌先で先端を刺激してやると、甘い味が口に広がる。
「あぁ…あっ、もう…」
紬の下半身が口の中で硬さを増す。
「放して…っ」
いいから。
俺は喉奥から言葉を結ばない声を吐き出す。
絞るように喉の奥まで咥えると、紬の腰が浮き、苦さが口の中を満たす。
その苦味をもっと味わいたくて、脈打つ紬を口に含んだまま搾り取る。
「あっ……ああっ」
紬は目の端に涙を浮かべ首を振るのに、下半身はまた硬さを取り戻す。
それから気が済むまで紬のそれを口で愛撫しながら、最後は自分で処理した。
トイレから戻ると、紬は俺に背を向けるように横たわり、身体を丸めていた。
その隣には、空の布団がひとつ。
翌朝、紬はいつもより早起きし、俺に朝食を振る舞った。
八枚切りの薄い食パンに端が焦げた目玉焼き、薄いベーコン。
「……珍しいじゃん、ありがとう」
「……うん」
紬はぎこちなく微笑む。
「今日は、遅い?」
「うーん、バイトあるからな。…遅いと思う」
目玉焼きを半分齧る。
「ゼミの発表が近いからさ、そっちもやらないといけないし――」
紬は黙って頷きながら俺の話を聞いている。
今日も、俺はこの部屋の外では『普通』を模倣するんだと思う。
心も身体も軋んでいく音がする。




