第76話:「狂信と幻想」
色と形が入り混じった幻視の世界は、まるで油絵をぐしゃりと潰したようだった。
地面は液体のように揺れ、木々は花にも鳥にも変化しながら溶けていく。
村人たちの姿さえも、実体を保てず、ただ「祈り」「恐怖」「憎悪」という感情の象徴となって漂っていた。
「園子! この世界はお前の心が作り出している!」
俺は剣を振るい、迫りくる赤黒い影を切り払う。
だが、影はすぐに形を変え、別の恐怖へと変貌していく。
切っても切っても終わりがない。
まるで嘘が嘘を呼ぶように、現実が次々と捻じ曲がっていく。
その時、甘い声が混沌を貫いた。
「――おや、これは愉快だな」
影が割れ、そこから漆黒の外套をまとった人物が姿を現した。
語詐師――あの忌まわしい存在が、ここに。
「お前……!」
俺は即座に構えを取る。
語詐師は悠然と歩み出て、園子の背後に立った。
その指先が、彼女の肩に優しく触れる。
「この娘の力……実に興味深い。
言葉を超えて、世界を“視覚”として語る。
だが、視覚とは最も嘘をつきやすい感覚だ。
人は見たものを疑わないからな」
「黙れ!」
カイが叫び、剣を振り下ろす。
だが、語詐師の姿は揺らめいて消え、次の瞬間には別の場所に現れた。
「愚かだなあ。
人々は言葉で争い、そして言葉で誤解する。
しかし――イメージなら一瞬で心を奪えるのだよ」
語詐師が片手を掲げると、幻視世界の空に巨大な光景が浮かんだ。
それは、セイとカイとミナが村を炎に包んで笑っているという、ありもしない“絵”だった。
「見ろ! 異邦人どもが村を滅ぼそうとしている!」
村人たちの叫びが、現実と虚構を混ぜ合わせていく。
ミナが蒼白になり、震える声で叫んだ。
「やめて! それは嘘だ! ボクたちはそんなこと……!」
「嘘? ハハハ、言葉で否定したところで、誰が信じる?」
語詐師が冷笑を浮かべる。
村人たちは完全に“絵”を信じ込み、手にした槍や鎌をこちらへ向けてきた。
その目は狂信と恐怖に濁り、もう理性では止められない。
「……これが……イメージの力……!」
俺は唇を噛み、園子を振り返った。
園子は膝を抱え、うつむいたまま小さく呟いた。
「わたし……みんなを助けるつもりだったのに……
なのに……わたしが作った力が……みんなを傷つけてる……」
その肩をミナが抱き締める。
「園子、ボクたちはわかってるよ。君は優しいって。
でも、君自身が自分を信じてくれなきゃ……!」
園子の瞳が揺れる。
その震えを見逃さず、語詐師がさらに言葉を重ねた。
「いや、信じるな。
お前がこの世界に存在する限り、混乱は拡がるだけだ。
……お前は、消えるべきなのだよ」
「やめろぉぉぉぉ!」
俺は叫び、剣を振るった。
だが、その刃は語詐師の幻影を切り裂くだけで、実体には届かない。
語詐師は不敵に笑い、幻視の世界をさらに肥大化させた。
村は完全に崩壊し、空と地面の区別すら消え失せる。
「さあ、どうする?
イメージに支配され、言葉も意味を失ったこの世界で――お前たちの“真実”とやらを示してみろ!」
村人たちが狂乱の中、こちらに殺到する。
園子は両耳を塞ぎ、必死に目を閉じていた。
「……もうやめて……もう……消えたい……!」
その悲痛な声が、世界をさらに深い闇へと沈めていく――。




