第5話:「喪失のフォーマット」
「君はもう、存在しないよ」
その声は、静かでやさしかった。
まるで、眠る子どもにおやすみを告げるような──絶望の音だった。
タワーの天頂、歪んだ文字が浮かぶ。
まるで世界の“構文バッファ”にエラーが走ったように、その存在は、視界にも、記憶にも、すべてにとって“不都合”だった。
完全虚人
それは、言葉の過剰な否定と無意味化によって生まれた、意味の喪失体。
存在した事実すら、他者の記憶から“削除”する。しかも本人は、自分が誰なのかを知らない。
「……誰、だっけ? オレ……何しにここに来たんだっけ……?」
カイが、よろめいた。
認識が、構文的に壊れかけている。“定義のない存在”に触れるだけで、言語ベースの自我が瓦解していく。
ミナがすぐさま叫ぶ。
「セイ! 認識バリア張って!」
「了解──《主語・目的語の構成保持フィールド、展開》!」
俺たちは、**“言葉で構築された防壁”**を展開する。だが、それも時間の問題だ。
「存在そのものを無効化する力……! こいつ、“意味を喪失させる魔法”そのものだ!」
「……虚人って、もしかして……世界の“言葉の墓場”なの?」
ミナがぽつりと言った。
誰にも理解されず、誤解され、ねじ曲げられ、消された言葉たちの末路──それが虚人。定義されなかったものの亡霊。
「くっ……でも、こいつを放置したら、この都市が“存在しなかったこと”にされる!」
俺の叫びにカイが声を張り上げる。
「どうする!?」
だがその“声”すら、消えかけていた。
俺は目を閉じて、考える。
こいつには、“意味”がない。なら、逆に。
「……意味を、与える」
「は?」
カイが首をかしげた。
「言葉は、記録だ。誰かに届けるためにある」
俺は一歩、前に出た。
「──《語彙指定:あの日、君は名前を呼ばれた》」
虚人の動きが止まった。
存在しなかったはずの“記憶”が、仮構として呼び出されたのだ。それは、嘘であり、願いでもあった。
「──《記述強化:誰かが、君を大切に思っていた》」
空間が震える。
虚人の身体が、“文章”に戻っていく。バラバラになった単語たちが、もう一度、“誰かの中にあったはずの言葉”として編まれていく。
ミナが、そっと言葉を添えた。
「《文末修辞──“もういちど、話そう”》」
虚人は、消えた。今度は、穏やかに。
“消される”のではなく、“納まる”ように。
戦いは、終わった。
だがミナがぽつりと呟いた。
「……この構文、今のうちに記録しといた方がいいかも。たぶん、次に出てくるのは“喪失”じゃなく、“偽装”だから」
「偽装……?」
「そう。“虚”を装って、真実を隠す者”──次に来るのは、**語詐師**だよ」
その構築概念も既に俺の頭の中にあった。
俺は、そっと拳を握る。
言葉は、世界そのもの。そして、使い方ひとつで、“虚”にも“誠”にもなる。