第35話:「語世界(ログスフィア)」
虚人が片手を上げると、空気が震え、空間に蜘蛛の巣状のひびが走った。
ひび割れの奥から、光の文字が溢れ出す。それは炎のように揺れ、川のように流れ、空へと舞い上がっていく。
「これが……語世界だ」
虚人の声に、広場全体が静まり返った。
溢れる文字は美しい輝きを放っていた。しかし、近づけば近づくほど、その美しさの中に不穏さが混じっていることがわかる。
肯定の言葉が生まれたかと思えば、次の瞬間には否定へと変わる。愛を語る文が、瞬きの間に憎悪の文へと変質する。意味が固定される前に、別の意味へと滑っていく。
観衆がざわめく。
「……きれいだ」「なんだこれ」「頭が……」
ある者は涙を流し、隣の者は笑い出す。その感情の振れ幅は制御不能で、俺たちの思考にもじわじわと侵入してくる。
俺は光の海を見つめたまま、言葉を探した。だが、何を言おうとしても頭の中でその意味が変わってしまう。
――真実とは、こんなにも脆いのか。
虚人は一歩、光の中へ踏み込み、両手を広げる。
「ここでは言葉がすべてだ。お前たちの真実も、この海の中で形を変える。正しさも悪も、混ざり合い、やがて溶ける」
その言葉は宣告のようであり、同時に甘い誘いでもあった。
視界の端で、何かが手招きしているのが見えた。
それは人影とも、文字の塊ともつかない存在。けれど、不思議と懐かしさを感じさせる。
気づけば、俺は足を一歩、光の中へ踏み出していた。足首まで文字の波に浸かり、その温かさと冷たさが同時に押し寄せる。
「セイ!」
ミナの声が遠く響いた。
だが、その声さえも、光の波が意味を変えていく。俺の耳に届いたときには、それは「来るな」という拒絶の言葉に変わっていた。
俺は立ち止まるべきか、進むべきかもわからなくなっていた――。




