潮に濡れて浮かび上がる経文
1枚目の挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
2枚目の挿絵の画像は、かぐつち・マナぱ様より頂きました。
家族と一緒に訪れた海水浴は、小学校最後の夏休みの最高の思い出になるはずだった。
だけどあの夏の一日は、一生涯忘れる事の出来ない異様な記憶になってしまったんだ…
その日の天気は至って穏やかで、ジリジリと照りつける夏の太陽の暑さ以外は何も不満はなかった。
波も至って穏やかで、体力さえ続けば水平線の彼方まで泳げそうだったんだ。
「これなら沖まで遠泳出来るかな…」
「無茶は駄目よ、途中で力尽きても助けに行けないんだから。」
母さんの不安そうな声を尻目に、僕はビーチボールで遊ぶお姉さん達の間を縫って海へと繰り出したんだ。
もしもあのお姉さん達と同じように浅瀬で大人しくしていたら、あんな目に遭わなかったかも知れない。
それは生き延びた今だからこそ言えるんだろうね。
自慢じゃないけど僕はクラスで一番の運動神経の持ち主で、水泳の授業でも誰にも負けなかった。
「えっ!?」
だからクロールの姿勢が崩れて沈み始めた時、最初は何が起きたか分からなかったんだ。
「ぶはっ!」
何とか息を継ごうとするけど、水面に顔を出した次の瞬間には沈んでしまう。
しかも右足にかかる痺れと違和感は、どう考えても単なる筋肉の痙攣じゃない。
「うっ!?」
恐る恐る水中を見た僕は、心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖に襲われた。
何と僕の右足首は、骸骨みたいに痩せ衰えた不気味な男に掴まれていたんだ。
『お前も仲間になるんだ…』
陰々滅々たる声は、僕の頭の中に直接響いてきた。
水中にいるので、音なんか聞こえないはずなのに。
どうやら僕が遭遇したのは昔に亡くなった溺死者の怨霊で、孤独のあまりに僕を殺して仲間にしようと企んでいたらしい。
「助けて、死にたくない…」
水面に顔を出したタイミングでそう叫んだつもりだったけど、ほとんど声になっていなかった。
あの声にならない叫び声が、僕の断末魔になるのだろう。
絶望的な思いが僕の心を侵食しようとした、その時だった。
「やはり、現れたわね…」
人気の疎らな砂浜に佇んでいた中学生位のお姉さんが、勢いよく海に飛び込んだのは。
『小娘、何だ貴様は…お前も俺の餌食になりたいのか?』
黒いビキニを着たポニーテールのお姉さんは、陰々滅々たる思念を飛ばす悪霊にも全く怯んだ様子を見せなかった。
『えっ?』
『な、何…?』
むしろ怯んだのは、僕と悪霊の方だったんだ。
白い柔肌に覆われたお姉さんの肢体が、まるで夜光虫みたいに淡い光を放ち始める。
そして次の瞬間、墨が滲んでいくように黒々とした模様が浮かび上がったんだ。
いや、それは今にして考えたら経文の文字だったんだろう。
何しろ悪霊は、次のように叫んだんだからね。
『うああ…それは、般若心経?!』
悪霊の驚愕を意に介さず、お姉さんは数珠の巻かれた右手を掲げて奇妙な事を始めたんだ。
まるで水中に図形を描いているような、奇怪な動作。
全身に般若心経を浮かび上がらせている事も相まって、それはあまりにも異様で鬼気迫る光景だったよ。
『ああ、止めろ!九字を切るな…浄化されてしまう…』
苦痛に悶える悪霊は、僕に構っている余裕もなかったらしい。
だからこそ、振り解いて逃げられたんだけど。
『悪霊退散、急急如律令!』
『うああっ…!』
お姉さんの思念と悪霊の絶叫が同時に響いた次の瞬間、小さな水柱が音を立てて上がったんだ。
「水に濡れたら浮かび上がる特殊塗料を使った般若心経のフェイクタトゥー、なかなか良い感じね。読経の出来ない水中で悪霊や怪異を狩る時の、心強い味方になってくれそうだわ。」
水柱が消えた空間を見つめるお姉さんの口調は、何とも得意気で満足そうだったよ。
「あの…ありがとう、助けてくれて…」
「ううん、御礼なんて良いわよ。私は好き好んで、ああいう連中と戦っているの。これで一先ず、この海も安心よ。」
さっきまでのクールな態度とは一変した、穏やかで快活な笑顔。
だけど僕は、振り返ったお姉さんの笑顔を見て凍りついてしまったんだ。
何しろお姉さんの端正な細面には、まるで耳無し芳一みたいにビッシリと御経が書かれていたのだから。
「うわあああっ!怖い〜っ!」
「あっ…ちょっと、君!」
呼び止めるお姉さんを尻目に、僕は無我夢中で陸地まで泳いだんだ。
もう泳ぎの型もペース配分も考えていられない。
小さい女の子が作っていた砂の城に腹から突っ込むと、僕は四つん這いで海から離れたんだ。
「キャッ!何なの、あの子!」
「どうなっているんだ、まるで化け物だ…」
這いつくばって逃げる僕の頭の上では、海水浴客達のどよめきが響いているよ。
「仕様がないなぁ、私は化け物でも悪霊でもないのに…まあ、この見てくれじゃ仕方ないか。」
ぶつくさ文句を言いながらお姉さんも砂浜へ上がってきたけど、周りの人は後退りしながら遠巻きに見ているだけだったよ。
「あの、君…それは一体…?」
「大丈夫です、これはフェイクタトゥーで洗えば消えますから。それよりあの男の子を助けてあげて下さい。さっきまで溺れていたみたいです。」
駆け寄ってきたライフセーバー達を僕にけしかけると、全身に般若心経を浮かび上がらせたお姉さんはそのまま何処ともなく去ってしまったんだ。
あの不気味なお姉さんには、それっきり会っていない。
だから名前も素性も、何も分からないんだ。
その後、近畿地方のオカルトスポットを片っ端から踏破して回っている狂的なオカルトマニアの女の子がいるって噂を聞いたけど、もしかしたらその子かも知れないなぁ。
もしかしたらあのお姉さんは、今でも怪異や悪霊と相対しているのかも知れないね。